第109話 櫻井家の鋳物づくり
目次 謙一 専門研究員
(2024年1月23日投稿)
明治時代以降、洋式高炉《こうろ》による安価な鉄が広く利用されていき、従来のたたら製鉄による鉄は割高となりました。経営者たちは販売先の開拓や製鉄技術の革新を模索したのです。
経営者の一つ櫻井家《さくらいけ》では、1907(明治40)年ごろから槙原製鉄場(奥出雲町)で、出雲地域では初めてとなる角炉《かくろ》の操業を始めました。角炉とは炉の本体を耐火れんがで造り、洋式高炉の技術を取り入れた製鉄炉です。1876(明治9)年設立の官営広島鉱山で開発され、1904(明治37)年に同鉱山が民間へ払い下げられると、その技術は各地に伝わりました。
当時、出雲地域のたたら製鉄経営者は、呉(広島県)の海軍工廠《こうしょう》向けにリンなどの不純物が少ない砂鉄原料の銑鉄《せんてつ》(製品の原材料となる鉄)を生産していました。
槙原製鉄場の角炉では、砂鉄を原料とするなど従来のたたら製鉄技術をふまえた特色を生かしながら、炉の高さをたたら製鉄のものの2倍にし、鉄と不純物の分離を促す石灰石を投入するなどの点により、採算性を改善したのです。
鉄生産量を比較すると、旧来の槙原たたらが三昼夜の操業で4.2~4.4㌧に対し、角炉は1日に2.4~2.7㌧で、約20日間の連続操業が可能でした。生産性の大幅な向上は明らかでしょう。
こうした角炉導入による銑鉄生産量の増加を背景として、櫻井家は新たに鋳物づくりを始めました。人気ドラマ「VIVANT(ヴィヴァン)」のロケ地となった同家の可部屋集成館が所蔵する、1913~1920(大正2~9)年の史料「鋳物元簿」(櫻井家文書)からは鋳物の種類・数量・販売価格、販売先、生産日程など多くのことが分かり、注目されます。
例えば1914(大正3)年には、主に年前半14日間の操業で、田畑を耕す際の道具である犂先《すきさき》・ヘカ(犂先の金属部分)がそれぞれ600個以上生産されています。これら消耗品が主力製品だった一方、調理具の鍋や釜は少数で大きな風呂釜はごくわずかでした。
購入者には個人や商店に加え、犂先類100組を大量購入した仁多郡農会など農業団体もあります。牛馬耕が中心で、鋳物の農耕具が不可欠だった当時の農業の一面を見ることができます。
従来のたたら製鉄に導入された角炉は、操業技術を大きく変えるとともに、鋳物の生産と消費にも新たな動きをもたらした、出雲地域で起こった技術革新として注目されます。