第110話 江の川流域の鉄生産
榊原 博英 特任研究員
(2024年1月30日投稿)
江戸時代の松江藩では、たたら製鉄の保護統制を行い、広い土地や山林を持つ鉄師《てっし》による経営が行われました。この連載でも取り上げた、ドラマ「VIVANT(ヴィヴァン)」のロケ地となった国の重要文化財・櫻井家《さくらいけ》住宅は、出雲の鉄師の繁栄ぶりを伝えています。
浜田藩、津和野藩でもたたら製鉄は行われました。原料となる砂鉄の違いもあり、刃物の素材になる鋼《はがね》・鉧《けら》でなく、鋳物に使われる銑《ずく》が多く生産され、藩による保護統制もあまりなかったようです。このため、各地に中小規模の鉄師が分散し、さまざまな流派がありました。製鉄炉があった建物(高殿《たかどの》)の形も異なっていたと考えられます。
島根県埋蔵文化財調査センターが江の川沿いの江津市松川町で実施した桜谷鈩跡《さくらだにたたらあと》の発掘調査では、16.9㍍×15.2㍍の隅丸方形の高殿が確認されました。このたたらは庄屋の石田家が経営しました。
江の川沿いには多くのたたらがあり、上流に長方形の高殿の価谷鈩跡《あたいだにたたらあと》がありました。対岸上流には浜田藩営の恵口鈩跡《えぐちたたらあと》があり、長方形と方形の二つの高殿がありました。
江の川流域出身の鉄師は、他国でもたたら製鉄に関わりました。長州藩が軍艦建造のため鉄を買い上げた大板山たたら(山口県萩市、世界遺産 明治日本の産業遺産)は長方形の高殿が確認されています。ここでは、江津市渡津村の高原(原屋)竹五郎が関わりました。
福岡藩営の犬鳴鉄山(福岡県宮若市)はほぼ正方形の高殿が確認され、江津市浅利村の藤川利右衛門が関わりました。それぞれ高殿の形が異なり、江の川流域出身の複数流派の鉄師が活躍したことが分かります。
明治時代以降、たたら製鉄は徐々に洋鉄に押されて生産量を減らし、代わるように石見焼の生産が増えます。桜谷鈩跡の横では石見焼の登窯である本田窯跡が調査されました。
江の川の舟運送は、材料や製品の運搬に大きな利便性をもたらし、河口には港町としての江津本町があり、多くの商家がありました。大正時代に鉄道が開通した石見では、明治時代には、まだ船舶での輸送が重要でした。
江の川は、古くは日本書紀に「安芸国可愛《えの》之川上」とあり、広島側で「可愛川《えのかわ》」、その後「江川」「郷川」などと呼ばれました。近年は水害が頻発し河川整備が急速に進んでいますが、昔から河川交通を利用した産業として鉄、和紙、焼き物生産がありました。川と人とのつながりと共存の歴史を考える上で、忘れてはならないことだと思います。
桜谷鈩跡の説明動画は、島根県古代文化センターのYouTube「しまこだチャンネル」で視聴できます。ぜひご覧ください。