いまどき島根の歴史

第111話 明治政府による「廃城令」

土橋 由奈 特任研究員

(2024年2月6日投稿)

 明治時代の初めごろ、政府は全国の城郭《じょうかく》の存廃を分ける重大な法令を出しました。1873(明治6)年1月14日、「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」という法令で、一般的に「廃城令《はいじょうれい》」と言われています。今回は、「廃城令」を手がかりに松江城・浜田城・津和野城の行方の一端を見ていきます。

 江戸時代における各藩の城郭は、軍事・行政施設として機能していましたが、幕末ごろにはその機能をほぼ失っていました。こういった城郭の維持管理は藩の財政を圧迫していたため、明治時代に入ると、「城郭は不用」としてその管理を放棄する旨を願い出る藩が多く出てきました。松江藩も、1871(明治4)年に太政官《だじょうかん》へ同様のうかがいを出しています。

 1871(明治4)年7月、廃藩置県《はいはんちけん》により中央集権化が進められていこうとする中、同年8月に兵部省《ひょうぶしょう》が全国の城郭を管轄するという法令が出されます。その後、各地での現地調査を経て、1873(明治6)年に「廃城令」が出されました。廃城と言うと全国の城を一斉に廃したように思われますが、実際は、城・城跡を軍用地として利用するために行われたものでした。

 軍用地利用を前提に陸軍省《りくぐんしょう》が所轄するか、解体・払い下げなどを前提に大蔵省《おおくらしょう》が所轄するかを決め、前者を「存城」、後者は「廃城」と区別しました。ただし、城の存廃を決めたとはいえ、存城でも建物は解体されたり、廃城から存城へ変更された事例もあり、その状況は各事例によってさまざまでした。

 「廃城令」と同時に出された「諸国存城調書」「諸国廃城調書」を見ると、松江城・浜田城は存城、津和野城は廃城となっています。

『太政類典』第二編より「諸国存城調書」「諸国廃城調書」の島根県箇所(国立公文書館所蔵画像を編集)松江・浜田は存城、津和野と母里・広瀬の陣屋は廃城の調書に記されている

 しかし、浜田城には「現今城郭ナシトイヘトモ新規ニ受取ルヘキ所」という意味の丸印がつけられており、この点から、廃城令の段階で浜田城の「城郭」は存在しなかった可能性がうかがえます。

 また、松江城は存城とされたものの、建物を解体する方向に話が進みましたが、有志の働きかけにより天守は解体を免れました。その後、松江・浜田両城は軍用地として利用されることなく、1889(明治22)年、最終的に旧藩主へ払い下げられることが決まりました。そして、本格的な整備、保存運動や公園化、忠魂碑の建設などそれぞれの活用が模索されていきます。

1875(明治8)年以前の松江城古写真(松江歴史館画像提供)

 一方、津和野城は、廃城令の翌年には城郭解体に着手し、翌々年には解体を完了しています。

 明治政府による城郭存廃の決定と城郭管理に関する一連の行動は、さまざまな形で各地の近世城郭の運命に大きな影響を与えました。