第112話 八幡町に埋もれた中世の港
廣江 耕史 特任研究員
(2024年2月20日投稿)
遺跡は地下にあるため、ある日突然、加茂岩倉遺跡の青銅器のような重大発見がニュースで取り上げられる事例があります。島根県内には未知の遺跡が多く、発掘調査で存在が明らかになります。今回取り上げる遺跡もその一つです。
松江市東部、八幡町の浜分Ⅱ遺跡は意宇川河口にあります。現在、周囲は意宇平野の水田ですが民家がある場所は微妙に高く、かつては海岸に形成された砂州であったと考えられます。2014年にその一角で発掘調査が行われました。
周辺の地表面は標高1.55㍍で、掘り下げて標高0㍍前後で有機物層が見つかり、鎌倉時代(13世紀)の中国製陶磁器、下駄《げた》などの木製品、魚骨、貝などが出土しました。また、多数の木杭《ぼっくい》が打ち込まれており、以前は中海の汀線《ていせん》が近い場所で木杭は船の係留、桟橋の可能性があります。
地図は当時を復元した地形図です。遺跡から南西2㌔に奈良時代の出雲国の役所である出雲国庁があります。国庁は鎌倉時代まで遺跡が存続し、その後は平野全体に役所、町などが分散するようになり、出雲中世府中と呼んでいます。
文献にみえる記述からこの地域の様子をみてみましょう。12~13世紀に国庁周辺が洪水に襲われ、明確な遺構が確認できなくなります。その後は中世社寺が東の竹矢、八幡に移り12世紀に八幡荘が成立し、石清水八幡宮の別宮として平浜八幡宮が置かれます。出雲中世府中には文献と地名から「津」(港)と市場があり、「田所」「税所」などの役所もあったとされます。
14世紀になると観応元(1350)年8月の「北垣三郎五郎光政軍忠状」に「八幡津」の文字が確認され、天文12(1543)年に大内義隆の富田城攻めの時には、広瀬から敗走途中に「アタカイノ津(阿陀加江津)」についたとまた、義隆の長男晴持が「ウマカタノ(馬潟)津」で死去した記録があります。現在の松江市東出雲町出雲郷、竹矢町、八幡町、馬潟町の中海沿岸部に津(港)が存在していたと考えられます。
浜分Ⅱ遺跡から出土した遺物も特徴的です。中国製陶磁器は、龍泉窯・同安窯の青磁碗《わん》で中国から海を渡り福岡県の博多経由でもたらされたものです。国産陶器には愛知県常滑産の大甕《おおがめ》があり、大きさからも船で運ばれたと思われます。
このほかに土師器《はじき》という素焼きの焼き物も多数あり、その中に京都産とみられる土師器という手捏《てづくね》の土器が4点含まれていました。この土師器は、出雲地域の戦国時代16世紀には安来市広瀬町の富田城周辺で出土しますが、13世紀は出雲中世府中域に限り出土しています。この頃は、京都周辺から訪れた人が携えてきたと思われます。
中世の浜分Ⅱ遺跡周辺は中海に面した場所であり、そこから中国や国内各地の陶磁器・土器が出土し、木杭が船の係留に関係するものであれば港の存在が考えられます。京都を起点とすれば、瀬戸内海から赤間関(下関)を経由して日本海、美保関、中海という水運ルートが想定され、常滑焼、京都系土師器などの出土がこれを証明します。
従来は文献上で想定されていた港の存在が、この遺跡の発見で確かめられました。歴史の研究は文献史、考古学、化学分析など総合的な研究が重要となり、新たな発掘調査により未知の遺跡と歴史に遭遇することができるようになります。