第114話 戦国時代の陣城
田村 亨 主任研究員
(2024年3月5日投稿)
最近、テレビや新聞などで「城」に注目した特集を度々見かけるようになりました。しかも、天守閣や巨大な石垣などを有する松江城のような近世城郭《じょうかく》だけでなく、山の中にひっそりと眠る戦国時代の「山城」人気も高まっているように感じます。
土を削って敵兵の進軍を妨げる溝(堀、堀切《ほりきり》)を造り、盛り土や削り残しによって土手状の防御施設(土塁《どるい》)を造成、堀や土塁に囲まれた中に平場(曲輪《くるわ》)を確保して兵士が駐屯《ちゅうとん》するなど、山城は「土の城」とも呼ぶべき軍事施設を中心に特徴づけられます。堀や土塁など山城を象徴する遺構との対面は、山城歩きの醍醐味《だいごみ》といえるでしょう。
しかしながら、すべての山城が、このように分かりやすい遺構によって形づくられているわけではありません。山城の中には、城攻めの戦いに際して臨時的に築かれた、「陣城《じんじろ》」と呼ばれる種類の城がありますが、臨時であるがゆえに、非常にシンプルな形をとる場合もあります。
例えば、戦国大名・尼子《あまご》氏の拠点として知られる富田城《とだじょう》(安来市広瀬町)の周辺には、富田城を攻めるために大内氏や毛利氏などが築いたと考えられる陣城が数多く残されています。特に富田城攻めの拠点とされる京羅木山《きょうらぎさん》は、山上の三郡山《さんぐんさん》や勝山城《かつやまじょう》と呼ばれるエリアにおいて、竪堀《たてぼり》(等高線に対して垂直方向で斜面に掘られた堀)が複数連続した遺構(畝状空堀群《うねじょうからぼりぐん》)などの特徴的な山城遺構が従来から確認されていました。
しかし、最近の調査によって、これまで城跡として認識されていなかったかなり広範囲の尾根筋に、城跡の可能性がある地形が確認されています。この遺構は、堀や土塁などの施設をほとんど伴わず、小規模な平坦地が階段状に連なっていくという、非常なシンプルな形をしていました。
階段状の陣城遺構については、全国的にも多数類例が見つかっています。特に近年、山上の微地形が明瞭に示された地形図(赤色立体図など)が普及したことで、新しく発見される事例も少なくありません。裏を返せば、シンプルな形であったがゆえに、戦いの中で用いられた記憶が長らく薄れてしまっていたのかもしれません。
京羅木山上で見られる階段状遺構の場合、富田城攻めの軍勢が駐屯する空間を確保する用途などが考えられますが、同じような形でも、場所やシチュエーションによって様々な機能が考えられます。
例えば、敵方の城に向かって接近するように階段状の平坦地が連なっていく場合、「仕寄《しよせ》」(城攻め)のための足場となったり、反対に敵勢の反撃を防ぐ防御壁(切岸《きりぎし》)となった可能性も考えられます。
シンプルな陣城の遺構は、植林や果樹園のための造成地とも類似するなど、そもそも山城の遺構といえるものかどうかをよくよく吟味しなければなりません。その一方で、臨時性が強いがゆえに、城として再利用・改修されにくく、当時の戦いの痕跡を直接残す可能性も高いといえます。マニアックかもしれませんが、さまざまな可能性が広がる山城探究の階段に、一歩足をかけてみてはいかがでしょうか。