いまどき島根の歴史

第115話 埴輪からみた6世紀の出雲

池淵俊一 古代文化センター長

(2024年3月12日投稿)

 6世紀後半になると、出雲地域では東の松江・安来平野周辺と出雲平野とでは古墳のあり方に大きな違いが見られるようになります。具体的には、東部では首長墓として前方後方墳や方墳が採用されるのに対し、出雲平野では前方後円墳や大型円墳が中心となります。

 こうした東西出雲における地域差は以前から注目されていて、この時期、出雲には東西に異なる政治勢力が存在し、互いに拮抗《きっこう》していたと理解する説が有力でした。

 このような考えは今なお有力ですが、近年、研究の進展により、この説の再考を促す知見がいくつか得られつつあります。その一つが、東西出雲を代表する首長墓である、松江市の東淵寺《とうえんじ》古墳と出雲市の上塩冶築山《かみえんやつきやま》古墳の埴輪《はにわ》にみられる共通性です。

 埴輪を製作する際には、表面を整えるため「ハケ」と呼ばれる板でなでつけますが、その際に「ハケメ」と呼ばれる板の木目の擦痕《さっこん》が埴輪の表面に残ります。周知のとおり年輪幅は年ごとに異なり、また同じ樹種でも生育場所・条件によって年輪パターンはそれぞれ違っています。つまり、擦痕の年輪幅のパターンが一致すれば、同じ工具で仕上げられたとほぼ断定できるのです。

 両古墳の埴輪を調べた結果、六つのハケ工具が共有されていることが分かりました。ハケ工具はただの板切れなので使用期間はそれほど長くなかったと想定されます。

 つまり、両古墳はほぼ同時期に、同じ埴輪工房で製作された製品が供給されていた、非常に近しい関係にあったことが分かったのです。異なる古墳間で埴輪のハケメが一致する事例は幾つか知られていますが、この事例のように30㌔以上離れた遠距離間の古墳で一致する例は全国的にもまれです。

上塩冶築山古墳・東淵寺古墳出土埴輪ハケメの比較

 埴輪は土器などと違って、首長墓の祭祀《さいし》で使用される特殊な器物で、近年では突帯の数によって首長墓の序列が示されるという説もあるなど、政治的な意味を強く帯びた器物と言えます。それが東西出雲の大首長間で共有されるという事実は、東西出雲の政治勢力が互いに対立・拮抗していたという従来の考えに再考を促すものと言えるでしょう。

 さらに注目されるのは、両古墳とも古代山陰道に隣接している点です。古代山陰道の成立は7世紀以降ですが、これに先立ち6世紀には広域的な道路が整備されつつあったとする考えが現在、有力です。こうした広域的な道路は到底、出雲内の勢力だけによって遂行できるものではなく、おそらく倭《わ》王権の主導のもと、この時期から急速に整備されていったと推測されます。

古代山陰道推定地と上塩冶築山古墳・東淵寺古墳の位置

 このように、従来から言われてきた東西出雲勢力の並立は基本的には正しいと考えられますが、決して対立・拮抗という関係だけではなく、倭王権の強い関与のもと、両地域の勢力が互いに連携を深めていき、後の出雲国の原型となる領域的なまとまりが成立しつつあった様相を、両古墳の埴輪から垣間見ることができるのです。