第116話 古代からの名所・嫁ケ島
平石 充 主席研究員
(2024年3月26日投稿)
松江市袖師《そでし》町の沖にある嫁ケ島は夕日の名所であり、晴れた日には撮影スポットのとるぱが見物の人でにぎわいます。この景勝地について、出雲国風土記はどのように記しているのでしょうか。
意宇《おう》郡の蚊島《かしま》(嫁ケ島)として記述がある、といいたいところですが、結論を急がず、まずは松江市浜乃木1丁目にある学校のトラックのような人工的な地割から説明したいと思います(航空写真)。ご存じの方も多いかもしれませんがこれは1929(昭和4)年完成、1937(同12)年に廃止された松江競馬場の跡地で、走路が完全に残っている事例として全国唯一の珍しいものです。
ここでこの周辺の標高を色別に表した高低地図を見ると、この場所が特に低いことが分かります。競馬場の営業中も走路の内側はそれまで通りの水田でした。
対照的に西側のJR線路や旧国道9号線のあたりは高くなっています(線路の西は干拓地)。この高まりは古い砂州で、円成寺のある山から南側の山までつながっています。山折川はこの砂州によって出口をふさがれるため、水がたまりやすく、かつては潟湖《せきこ》(ラグーン)があったと推測されます。
その跡地が水田・競馬場に利用されたのです。潟湖があった頃は、今の宍道湖岸は白砂青松、内側に潟湖、湖側を見ると、ぽつんと蚊島があったはずで、小さな天橋立《あまのはしだて》といっていい景観です(復元図)。
出雲国風土記にも、このあたりの様子が断片的に記されています。まずは蚊島(嫁ケ島)。この部分の風土記の文章は難読ですが、周りは磯《いそ》だが、小さな木が一本だけ生えていると読むべきでしょう。ご存じの通り小さな島ですが、描写は大変丁寧で、島の景観に対する風土記編者の高い関心がうかがえます。
次に意宇郡の津間抜《つまぬき》池とされる池も、江戸時代にはこのあたりにあったと記されており、ずばり先の競馬場跡地にあった潟湖のことです。津間抜池について、西尾良一氏が、池としては大きいこと、鴨や鮒《ふな》が生息する、また「抜」が「陂《つつみ》」(堤と同じ意味)に似ていることから本来は津間陂《つまのつつみ》という潟湖の記述だったと論じていますが、その通りだと思います。
風土記には、島根郡にここと同じように白砂青松の砂州で海から隔てられている潟湖、前原陂《さきはらのつつみ》の様子が詳細に記されており、景観が優れているだけではなく、男女が集って遊興する場所だとされています。風土記では今の宍道湖・中海は入海として一括されていますが、蚊島周辺だけは、唯一「野代海」と個別の名前が記されています。この場所は古代人にとっても、現代同様、というか現代以上に特別に優れた景観の場所で、人の集まるいわゆる名所だったのではないかと想像されます。