第117話 津和野藩主 酒井出羽守
矢野 健太郎 専門研究員
(2024年4月3日投稿)
津和野藩主というと亀井家を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。しかし、江戸時代最初の藩主は「坂崎出羽守直盛」《さかざきでわのかみなおもり》です。直盛は宇喜多家の出身でしたが、家督相続争いで家を離れて徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの功績で津和野藩主となり、坂崎を名のりました。津和野においては、城の大改築や城下町の整備などに力を注ぎ、近世の津和野の基盤を作ったとされています。
その後、大坂の陣においても、家康の孫で豊臣秀頼の妻であった千姫を家康のもとまで護送するなどの功績を上げました。しかし、1616年、千姫と本多忠刻《ただとき》との婚姻の際に、千姫を奪おうとしたとされる「千姫事件」の後に死去し、坂崎家は断絶となりました。
そして、つぎの津和野藩主が亀井政矩《まさのり》でした。写真の古文書は、津和野藩主が坂崎家から亀井家へと替わる際に作成されたもので、①は元和3年(1617)に亀井家が預かった武具等の目録、②は元和5年にこれらの武具等が亀井家から「酒井家」へ引き渡された際の請取書と考えられる古文書です。
いずれの文書にも冒頭に「酒井出羽守」と書かれています。つまり、大名の公的な文書のなかで酒井出羽守の名称が使用されているのです。
当初、津和野藩主は坂崎家だと思っていた私には「酒井」は疑問だったのですが、少し調べてみると、『津和野町史』でも後年の編纂《へんさん》史料などで酒井を名乗ったということが紹介されています。また、山口県文書館所蔵の「豊石御預り地石高其外」という幕末期の史料には「大坂陣之時、出羽守功名あり、此時坂崎を改めて酒井を賜り、酒井出羽守と言」との記述があり、大坂の陣での功績により酒井姓を賜ったとされています。一方で、幕府の史書である『徳川実紀』の千姫事件の記述には「石見国津和野城主坂崎出羽守孝親」(孝親は誤りかと思われますが詳細は不明です)とされており、酒井出羽守を名乗っていたかどうかは定かではありませんでした。
しかし、今回紹介した史料は元和期の一次史料であることから、当時の人々が自他ともに酒井出羽守であると認識していたことが明らかになったといえるでしょう。また、受け渡しが行われた武具は、大砲・銃など1020丁、弓545丁、鑓《やり》545本などであったことからすると、元和5年においても、断絶したとされる坂崎家こと酒井家が何らかの形で存続していた可能性も考えられます。深まるばかりの「酒井出羽守」の謎について、今後も追跡していきたいと思います。