第119話 出雲の前方後方墳
吉松 優希 主任研究員
(2024年4月17日投稿)
みなさんは水戸黄門として著名な徳川光圀が世界最古の考古学的な発掘調査を行ったことをご存じでしょうか。元禄5(1692)年に栃木県大田原市の上・下侍塚古墳の発掘調査を行っています。この上・下侍塚古墳ですが、古墳時代前期の前方後方墳です。前方後方墳といえば、島根の方は山代二子塚古墳(松江市山代町)を想像される方も多いのではないでしょうか。
前方後方墳の名前も1925年に刊行された『島根縣史』の中で山代二子塚古墳を指して野津左馬之助氏が初めて提唱したものです。余談ですが、この5日後には丸山瓦全氏が上・下侍塚古墳を指して前方後方墳と論文の中で紹介しています。インターネットのないこの時代に島根と栃木でほぼ同時に「前方後方墳」の呼称が生まれているのはなんともおもしろいことではないでしょうか。
さて、この前方後方墳ですが、一般的には古墳時代前期にその多くが築造されています。出雲でも古墳時代前期に前方後方墳が築造されますが、現状知られている数は非常に少なく名分丸山1号墳(松江市鹿島町)、平廻古墳(松江市大野町)、松本1・3号墳(雲南市三刀屋町)のみで、多くは中期末~後期にかけて築造されたものです。
この状況は全国的にも特殊で、出雲の中期末~後期に築造される前方後方墳は、王権に対する独自性を象徴するものとして扱われてきました。また分布域も前期と中期末~後期では大きく異なります。前期では当時の出雲地域で中核をなす荒島地域の周縁部に分布しますが、中期末~後期では、この時期に出雲東部の中心となる意宇平野(松江市南部)に集中します。時期的な隔たりや分布の状況からは、両者には連続性は認められず、別の系譜によって出現したものと考えられます。古墳時代前期の前方後方墳は出現の背景に北陸との関係が指摘される一方で、中期末に再出現する状況は、独自の地域内秩序を構築するため、首長層の連携を表象する存在として創出されたと指摘されています。このように時代によって、同じ墳形でもその選択制には外的な要因と内的な要因が働いていることがわかり、当時の地域社会の一端を垣間見ることができます。
今年は前方後方墳命名99年、そして実は出雲の大型古墳5基(山代二子塚、大庭鶏塚、今市大念寺古墳、上塩冶築山古墳、上塩冶地蔵山古墳)の国史跡指定100周年の年です。少し先ですが、秋には様々なイベントを企画しています。この機会に出雲の古墳文化に思いをはせてはいかがでしょうか。