いまどき島根の歴史

第121話 松江 和久羅城と軍船の連携

目次 謙一 専門研究員

(2024年5月8日投稿)

 現在の社会ではドローンが広く使われています。例えば、映画やテレビ番組では、ドローンによる上空から俯瞰《ふかん》した迫力たっぷりの映像が流れ、私たちを楽しませています。

 戦国時代、高い山の上に築かれた城からの眺めもまた、遠くを見渡すものでした。周囲の城や街道・海上での軍勢の動きなどをいち早く察知し把握するために、城からの眺望で得られた情報が重要視されたことは想像に難くありません。

 和久羅《わくら》山頂上・標高261・8㍍に築かれた和久羅城跡(松江市)は、松江市街地の東側、宍道湖から中海へ流れる大橋川の北岸に位置します。嵩山《だけさん》がそびえる北側を除いた三方に視界が開け、東の中海方面は十神山《とかみやま》城跡(安来市)、大根島・江島を望みます。南には大橋川を挟んで茶臼山《ちゃうすやま》城跡(松江市)が見え、西は白潟から末次を経て荒隈《あらわい》城跡・満願寺《まんがんじ》城跡といった宍道湖岸の軍事拠点を眺められます。

和久羅山上から宍道湖の眺め

 この視界の広さもあってか、1562(永禄5)年から尼子《あまご》氏と毛利《もうり》氏が出雲国東部で争った時期に、和久羅城は重要視されました。毛利元就《もとなり》は、「わくら山」に城を構え、さらに「けいこ(警固・軍船のこと)」を中海へ進めて「大こん嶋」をおさえ、宍道湖からの軍船も合流すれば、尼子氏の居城富田《とだ》(安来市)と島根半島との連絡を断ち切れる、と述べています。和久羅城と軍船を連携させた戦略と言えるでしょう。

 1569(永禄12)年からの尼子氏再興戦でも、和久羅城は毛利氏方の拠点として重要な役割をはたしました。翌年5月以前に大橋川河口南岸の領主・野村士悦《しえつ》が渡河して城を尼子氏方から奪うと、「鉄砲衆(鉄砲を扱う兵士たち)」が防衛のため派遣されています。9月初めには、尼子氏の新山《しんやま》城(松江市)を包囲する拠点3カ所の一つに位置づけられました。加えて、本庄下波崎《ほんじょうしもはざき》(松江市)の尼子氏方の城を攻める軍船の集合場所ともなったのです。

西からみた和久羅城跡

 和久羅城は宍道湖から中海を広く収める視界によって、敵方軍船の動向を把握する重要拠点だったと考えられます。かつ、山麓の大橋川北岸は味方軍船の集合場所でした。和久羅城は軍船の活動に深く関わった城とみてよいでしょう。

 和久羅山に整備された登山道を行くこと約40分で、頂上すなわち和久羅城跡の中心部に着きます。広々とした宍道湖・中海の眺めを体感してみてはいかがでしょうか。