いまどき島根の歴史

第122話 配流地・隠岐への道

橋本 剛 主任研究員

(2024年5月15日投稿)

 島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市大社町杵築東)では19日(日)まで、企画展「誕生、隠岐国」を開催中です。「政治の「敗者」と文化の「勝者」」と題したエピローグでは、政治的な「敗者」となって隠岐国へ流された人物により、都の文化が伝えられた様子が示されています。

 ところで皆さんは、平安時代に隠岐国へ配流となった人物として、小野篁《おののたかむら》をご存じでしょうか。篁は遣唐使に任命されていましたが、乗船を拒否したことがきっかけとなり、838年に隠岐国へ流されました。篁本人をご存じなくても、彼が詠んだ「わたの原 八十島《やそしま》かけて漕《こ》ぎいでぬと 人には告げよ 海人《あま》の釣舟《つりぶね》」という『百人一首』にも収められた著名な歌を覚えている方もおられるでしょう。

 

小野篁(菊池容斎著『前賢故実』巻3、郁文舎、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778239より)

 この歌は、失意の篁が船で配流の地へ向かう際に詠まれた歌ですが、実は都から隠岐国への交通を考える上で議論のある歌なのです。問題となっているのは、この歌が詠まれた場所で、これには二つの解釈があります。

 一つは摂津国の難波津《なにわづ》(現在の大阪湾にあったとされる港)とする理解で、その場合、船で瀬戸内海を進み、隠岐国へ向かったことになります。

 もう一つは出雲国の千酌駅《ちくみのうまや》(現在の松江市美保関町千酌周辺)とする理解で、この場合には山陰道を陸路で出雲国まで進み、千酌駅で船に乗り換える際に詠んだということになります。なお千酌駅は『出雲国風土記』に登場し、隠岐国へ向かう場所として記されています。

平安時代の山陰道・山陽道

 この二つの理解について、近年は後者の見解、つまり出雲国千酌駅で詠んだという解釈が主流のようです。しかし、仮にそうだとしても、平安京から出雲国までのルートについては別の解釈が可能です。先に述べたように、出雲国までは丹波国や但馬国といった山陰道を進んでいったと考えるのが一般的ですが、私は山陽道を経由した可能性もあると考えています。

 というのも、平安時代末の説話集『今昔物語集《こんじゃくものがたりしゅう》』には、篁が山陽道に属する播磨国明石(現在の兵庫県明石市周辺)を通ったという伝聞が記されているからです。これは説話であるため、これまであまり重要視されてきませんでした。

しかし興味深いことに、鎌倉時代に隠岐国へ流された後鳥羽上皇は、明石を経由したことがわかっています。つまり上皇は、山陽道経由で隠岐へ向かったことになるのです。

 さらに配流ではありませんが、平安時代の因幡国司が、同じく明石を経由して因幡国へ赴いたことを示す史料も残されています。山陰道は急峻な山が多く、たとえ遠回りでも、比較的平坦な山陽側からのルートが用いられたのでしょう。そうであれば、『今昔物語集』を単なる説話として片づけることはできません。やはり篁の場合も、同様のルートが利用された可能性は捨てきれないと思いますが、いかがでしょうか。