第124話 島根と島原・天草一揆
矢野 健太郎 専門研究員
(2024年5月29日投稿)
皆さんは、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原と天草の農民やキリスト教徒たちが起こした大規模な百姓一揆について「島原の乱」と習いましたか?それとも「島原・天草一揆」と習いましたか?
近年の教科書では、島原と天草の各地で一揆が起こったことや、キリスト教徒による反乱という点だけではなく、領主の圧政に対する百姓一揆という点も重視されるようになり、「島原・天草一揆」と記述されるようになりました。今回はこの島原・天草一揆に関する少し劇的な書状《しょじょう》について紹介したいと思います。
この書状は、1637年12月29日に、一揆鎮圧の幕府軍の総大将であった板倉重昌《いたくらしげまさ》が津和野藩主の亀井茲政《かめいこれまさ》に宛てた書状です。まずは書かれている文字を読み解いてみましょう。
書状の大意は「遠路、書状を下さりありがとうございます。おっしゃるとおり島原一揆がおこりましたので、幕府の上使として島原へ下ってきております。こちらの一揆勢は有馬《ありま》の古城(原城《はらじょう》)に立て籠《こ》もっております。城攻めの準備を申しつけ、準備が整い次第攻め落とす予定です。」という内容になります。
書状の「仕寄《しよせ》」とは城攻めを意味する言葉で、準備が整い次第、一揆勢の立て籠もる「原城」(島原の元領主・有馬氏が築いた城)を攻め落とすという非常に緊張感あふれる戦況を伝えています。
では、なぜ重昌は茲政に書状で戦況を伝えていたのでしょうか。
それはこの時、茲政は一揆鎮圧の幕府軍へ動員されておらず、跡継ぎがなく、改易《かいえき》となった松江藩主の京極忠高《きょうごくただたか》から、次の藩主となる松平直政《まつだいらなおまさ》へ松江城を引き渡すまでの間、松江城の警備についていたからでした。
時を1637年12月29日に戻しましょう。重昌は書状に記した通り、翌日の元旦に原城へ総攻撃を行いました。その戦いの中、重昌は一揆勢の銃弾に当たり非業の戦死を遂げました。まさにこの書状は、幕府軍の総攻撃の直前に記された書状で、もしかすると板倉重昌の「絶筆」(生前、最後に書き残した文章)となったかもしれません。
今回紹介した書状からは、「島原・天草一揆」の最中、亀井茲政がどのような大名たちと関係を持ち、情報を得ていたのかがうかがえます。一見、無関係に見える「島原・天草一揆」という日本史上における大事件と、島根は歴史上ではこういった形でつながっていたのでした。