第125話 あせり池と止屋淵
平石 充 主席研究員
(2024年6月5日投稿)
歴史を考える上で、その当時の地形を復元する必要のある地域もあります。出雲市の平野部もその一つで、奈良時代に書かれた『出雲国風土記』(以下『風土記』)によれば、西側に神門水海《かんどのみずうみ》と呼ばれる汽水湖があり、斐伊川本流も西の大社湾に注いでいたとされます。
『風土記』には書かれていませんが、出雲市にはこの他にも今はない池がいくつかありました。その一つが出雲市大津町の来原《くりはら》地区にあったあせり池です。この周辺は斐伊川放水路によって地形が大きく変わってしまいましたが、江戸時代初めまで池が残っていました。また、地質調査の結果、奈良時代にも池ないし湿地だったと考えられています。
18世紀の出雲の地誌である『雲陽誌《うんようし》』をみると、あせり池について興味深い伝承が記されています。それはこの池が『日本書紀』景行天皇60年にみえる止屋淵《やむやのふち》だというものです。止屋淵とは、出雲国造の遠祖《とおつそ》である出雲振根《いずものふるね》が、大和朝廷に従順だった弟の飯入根《いいいりね》を殺害した場所です。
『日本書紀』の話には続きがあって、これに怒った大和朝廷は振根を誅殺《ちゅうさつ》し、この後、飯入根の子孫が出雲国造氏となったとされます。これらの説話が歴史的事実かどうかは別として、奈良時代以降、止屋淵とは出雲国造氏にとってその血統が確定した由緒の場所と強く意識されたとみられます。
奈良時代にも、あせり池が止屋淵であると考えられていたかどうかは分かりません。しかし、この場所は重要な場所と考えられていたことが、『風土記』の神社記載からわかります。
『風土記』では書かれる順番の早い神社ほど重要とされ、この池の周辺にあったとみられる阿須理《あすり》社(現在は一畑電鉄大津駅近くに移転)は神門《かんど》郡(出雲市西部)の37の神社のうち、2番目に書かれているからです。
また、現在、出雲市平野部の水田の多くは高瀬川から水を供給されていますが、高瀬川の前身となる妙仙寺用水も、このあせり池から引かれていたとみる説もあります。
このほか、中世に設定される出雲大社領荘園はほとんどが当時の斐伊川の右岸、現在の大社町から斐川町にある中で、この池をふくむ石墓《いしづか》村(現在の石塚)だけが斐伊川の左岸にあります。出雲大社領荘園とは中世出雲国造家の由緒の地が選定されていますので、この頃からあせり池やそれがある石墓村を由緒の地とする見方があった可能性があります。
現在、あせり池は完全に水田化していますが、古代から中世にかけての出雲市域の歴史を考える上で、大変重要な場所だったのです。