いまどき島根の歴史

第126話 清少納言が記した?「たまつくりの湯」

吉永 壮志 専門研究員

(2024年6月12日投稿)

 『源氏物語《げんじものがたり》』の作者として知られる紫式部《むらさきしきぶ》の生涯を描く大河ドラマ「光る君へ」。主人公・紫式部のライバルといえば、真っ先に清少納言《せいしょうなごん》が思い浮かぶのではないでしょうか。これはおそらく両者の境遇が似ていることが、一番の理由かと思われます。

 紫式部の父である藤原為時《ふじわらのためとき》は漢詩にたけた学者で、越前守や越後守を務めた官人です。越前守に任命されたのも、日本海の若狭・越前にやって来た中国宋の商人との漢詩のやりとりなど、適切な対応を期待されたためだと考えられています。

 一方、清少納言の父、清原元輔《きよはらのもとすけ》は三十六歌仙の一人として数えられる和歌の名手で、周防守や肥後守に任命された官人です。つまり、両者の父は優れた文化人で、国守《こくしゅ》(現在の都道府県知事に相当)経験を有するという共通点があり、文化的な素養が娘に受け継がれたといえます。

 また、紫式部が仕えたのが、藤原兼家《ふじわらのかねいえ》の息子である藤原道長《ふじわらのみちなが》の娘彰子で、彰子は一条天皇の中宮(天皇のキサキ)です。それに対して、清少納言も、同じく兼家の息子である藤原道隆《ふじわらのみちたか》の娘で一条天皇の中宮定子に仕えています。彰子が中宮になるのに伴って、定子は最高位のキサキである皇后となっていますが、いずれも一条天皇と結婚し、華やかな宮廷サロンを営みました。そのような環境のもと、紫式部、清少納言ともに活躍し、それぞれ『源氏物語』、『枕草子《まくらのそうし》』を著したのです。

 さらに、紫式部は自らの日記『紫式部日記』の中で清少納言のことを「したり顔」(得意顔)で「さかし」(利口ぶっている)など、かなり辛口な評価を下しています。この厳しい評価は、裏を返せば紫式部が清少納言を強く意識していたことの表れといえます。 余談が長くなってしまいましたが、紫式部のライバルとされる清少納言の随筆『枕草子』117段「湯は」に「ななくりの湯、ありまの湯、たまつくりの湯」(写真)と記されています。

『枕草子』(「国立公文書館デジタルアーカイブ」より、トリミング)

 「温泉といえば〇〇」として、玉造温泉が挙げられているのです。奈良時代の『出雲国風土記』で地元の人に「神湯」と呼ばれていると記された玉造温泉が、平安時代には都でも広く知れわたっていたことを物語っています。

 ところで、タイトルに「?」が入っているのを不思議に思われた方はいらっしゃるでしょうか。

 実は「湯は」の段は、『枕草子』の写本のうち、能因《のういん》本(歌人として有名な能因法師の元にあったとされることによる名称)と呼ばれる系統にはみえるものの、注釈つきのテキストとして今日よく目にする三巻本(三冊に分けられていることにちなむ呼称)、とりわけその中でも善本とされる第一類の系統には収められていません。

 現在、三巻本がもともとの『枕草子』に近く、能因本は『枕草子』に加筆したものと考えらえていますが、清少納言自身が加筆したのか、それともやや時代が降った平安後期の別人による加筆なのかはよく分かっておらず、それが「?」の理由です。

 答えを出すのは容易ではありませんが、ぜひ、お湯に浸かりながら、清少納言になった気持ちで、自分なりの「湯は」を考えてみてはいかがでしょうか。