第129話 朝廷へ上納された石見銀山の銀
目次 謙一 専門研究員
(2024年7月3日投稿)
2007(平成19)年7月2日、世界遺産に登録された石見銀山遺跡。その価値の一つとして、16~17世紀初頭の大航海時代に大量の産銀を広く流通させ、世界の経済や文化の交流に大きな影響を与えたことが評価されています。鉱山開発が盛んに行われていた16世紀後半、それらの銀はどこへ運ばれたのでしょうか。
そのゆくえの一端は、京都で確かめられます。1562(永禄5)年とその翌年、毛利元就《もうりもとなり》は石見銀山を朝廷《ちょうてい》と室町幕府の御料所《ごりょうしょ》(直轄地)とし、かわりに自らがその代官となることを認められました。朝廷で天皇の側近くに仕えた女官《にょかん》たちの当番日記『お湯殿《ゆどの》の上《うえ》の日記』には、毛利氏が銀を上納した記録が複数みつかります。1564(永禄7)年に50枚だった上納銀は、7年後に80枚、9年後に100枚と増えました。以後は毎年銀100枚が上納されたと考えられています。
同じころ、正親町《おおぎまち》天皇即位の際に毛利氏が上納したものとして、長さ約16センチ・重さ160グラムほどの御取納丁銀《おとりおさめちょうぎん》(島根県立古代出雲歴史博物館所蔵)をご存じの方も多いでしょう。毎年の上納にくわえて、毛利氏当主や一族は、朝廷へあいさつに出向いたおりに銀を10枚、20枚と納めていたと『お湯殿の上の日記』に記されています。
当時の京都では、活発な対外交易により高価な商品(生糸・絹織物・陶磁器など)が数多くもたらされ、経済規模が拡大するなかで、高額のお金として金や銀が幅広く使われるようになっていました。日記には、上納銀が朝廷に届いたことについて「めでたし、めでたし」という感想も見えます。その理由も十分想像できそうですね。
一方、銀を京都のみならず国内外へ広範囲に送り出した石見銀山一帯では、鉱山町や銀の積み出し港・温泉津《ゆのつ》の町が著しく発展し、遠く離れた地域の人々が数多く訪れていました。
たとえば、1567(永禄10)年、京都の華道家元・池坊専栄《いけのぼうせんえい》が鉱山町に来訪し、1587(天正15)年には、当時随一の文化人・細川幽斎《ほそかわゆうさい》が温泉津の人々と親しく交わりました。石見銀山と文化の中心であった京都の人々の間で展開された、交流の好例といえます。石見銀山は銀の産出地というだけではなく、活力ある地域としての魅力も備えていたと考えられるでしょう。