いまどき島根の歴史

第130話 近代島根の鋳物業

土橋 由奈 特任研究員

(2024年7月10日投稿)

 島根県古代文化センターで、現在行っている研究の一つ「鋳物と鋳物師《いもじ》の研究」では、島根県内の鋳物業について通史的に研究を進めています。今回は明治~大正期の松江を中心に、研究の中で分かってきたことをご紹介します。

 まず前段として、近世の松江には鍋釜を中心とした鋳物の製造・販売を行った松江藩の役所・釜甑方《ふそうかた》がありました。そして明治の世になり、近世の枠組みが解体されていく中で、釜甑方も1873(明治6)年に廃止されます。工場跡地や道具などが民間に払い下げられ、「鋳鉄会社」として新たに操業していきます。のち、島谷理右衛門《しまたにりうえもん》が引き継ぎ、島谷鋳工場となりました。また、当時の松江には、島谷鋳工場と同じく釜甑方の流れをくみ、美術銅器を製造した遠所《えんじょ》家、同家の親戚とみられ、明治期に西光寺《さいこうじ》(松江市)の釣鐘を鋳造した天野市兵衛、16代松江大橋に使われた鉄柱を鋳造した原正次郎などのさまざまな鋳物師がいて、それぞれ鋳造を行っていました。

 こういった明治以降の鋳物師たちの特徴として挙げられるのが、博覧会や展覧会、共進会(コンクール)に度々、出品している点です。これは鋳物に限った話ではありませんが、内国勧業博覧会などの出品目録・受賞者一覧を見ると、先に挙げた鋳物師たちが鍋釜、花器や茶道具などの美術鋳物を多く出品したことが分かります。こうした場で賞をとれば技術の面で箔が付きますし、賞金が出たり、出品作品が購入される場合もあったので、主力製品に加え出品作品の鋳造も盛んに行ったのではないかと考えられます。

遠所長太郎出品の「遊魚紋花器」。1929(昭和4)年、商工省主催の工芸展覧会で褒状を受賞した。(商工省編『商工省工芸展覧会受賞品図録』第16回より。国立国会図書館デジタルコレクション画像を編集)

 一方、明治以降の鋳物業でもう一つ特徴的なのが、工業鋳物の登場です。『島根県統計書』で様子を見ていくと、明治30年ごろから、現在も操業している福島造船所などのような造船業者が統計に出てくるのに伴ってか、船舶用をはじめとした発動機(エンジン)を製造する工場が増えています。発動機の部品には鋳造技術が多分に使われており、先に述べた島谷鋳工場でも「船舶用機械」の鋳造が行われていました。

島谷鋳工場の広告。上部に「鉱山用・建築用・船舶用諸機械」「其他工業用諸機械一切製作」などと書かれている。(太田台之丞編『松江商工案内』松江商業会議所、大正8より。国立国会図書館デジタルコレクション画像を編集)

 以上、駆け足で見ていきましたが、近代においては釜甑方の流れをくむ鋳物師たちが技術を継承しながら工芸的な製品の鋳造を続ける一方で、全国的な産業発展の流れを前提とし、造船業などに関連した工業鋳物の生産が栄えていく状況があったことが分かります。このような様子が現在の島根県の産業にどう結びつくのか、はたまた結びつかないのか。引き続き研究を重ねていきたいと思います。