第132話 安土桃山時代の焼き物・唐津焼
廣江 耕史 特任研究員
(2024年7月31日投稿)
山陰地方では昭和末年頃まで焼き物のことを「からつ」ないし「からつもの」と呼んでいました。「からつ」は佐賀県唐津市を指しており、同市が生産と積み出し港の中心であった焼き物が「唐津焼」・「からつもの」と呼ばれています。(図1)それではなぜ、山陰地方では「焼き物」のことを「からつもの」と呼ぶようになったのでしょうか。
江戸時代前期までの唐津焼は「古唐津《こからつ》」とも呼ばれ、そのなかでも鉄分を用いて黒い絵付けを施した「絵唐津《えからつ》」はその素朴な絵柄に人気があり、テレビ番組で取り上げられるのをよく目にします。文様の多くは草花をモチーフにしたものですが、龍などを描いたものもあります。
唐津焼は、桃山時代(16世紀末~17世紀初頭)に朝鮮の技術を取り入れて始まりました。一般的に豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に伴われてきた陶工によって始められたと解説されますが、美術史や考古学における研究では、朝鮮出兵にさきがけた1580年代に佐賀県北波多地区岸岳周辺で始まったとする説が有力でした。近年、資料の再検討や佐賀県唐津市名護屋《なごや》城跡などの発掘調査により、改めて朝鮮出兵の後とする見解にみなおされつつあります。この時代の焼物は桃山陶器とよばれ、美濃(岐阜県)の織部《おりべ》焼にみられるような大胆な絵柄、押しや歪みを加えた非対称な造形美が特徴とされます。唐津焼にも同様な作りの器がみられ、当時の流行を取り入れています。
島根県下における唐津焼の出土例は17世紀初頭からみられ、生産開始当初から日本海側は有力な市場の一つであったようです。当時の出雲国内最大の都市は戦国大名尼子氏以来の城下町富田(安来市広瀬町)です。この頃の町は、寛文6(1666)年に起きた飯梨川の氾濫で現在は、河川敷となっており「幻の城下町」と呼ばれていました。昭和49年度から飯梨川の河川改修に伴い富田川河床遺跡として発掘調査され、大型のごみすて穴(SK017)から324点の唐津焼(肥前系陶器)が出土しました(写真1)。
この中には、唐津焼の初期の窯製品が含まれ、1610年前後に始まる伊万里焼(肥前系磁器)は含まれていませんでした。これらのことからSK017 は、1607年から1610年頃、堀尾氏が富田城から松江城に移転する際に不要物を廃棄したゴミ穴と思われ、創業間もない唐津焼の様子を伝えています。
また、近年進められている松江市白潟地区の発掘調査では、堀尾氏が富田から松江に移転した、松江城下町の成立以降に唐津焼の壺や甕類が加わっていく様子が分かってきました。このほか石見銀山の標高400mの山上にある石銀《いしがね》地区でも、標高400mの山上にある銀精錬の作業場(吹屋建物《ふきやたてもの》)から唐津焼・皿が見つかっています。このように唐津焼の生産が始まってから、比較的短期間に製品が県内に広まっていた様子が窺えます。
城下町などの都市遺跡の調査では中国や国内の様々な産地の焼き物が出土します。中世の日本海を介した流通では博多を中心として北部九州から山陰、北陸へとつながり中国製陶磁器などがもたらされていましたが、中世末から近世初頭になると中国から陶磁器の輸入が減少し、この物流ルートに乗って唐津焼が一気に広がります。また、唐津焼は擂鉢、甕を中心として作っていた備前焼などと異なり、碗、皿、鉢と多様な器種があることで重宝し、焼き物全体を指すようになりました。