いまどき島根の歴史

第134話 学生服の陶製ボタン

間野 大丞 センター長

(2024年8月14日投稿)

 「戦時中に学生服のボタンを作っていましたよ」

 袖師《そでし》窯(松江市袖師町)の尾野友彦さんが手のひらにのせて、小さなボタンを見せてくれました。それは4年前、初夏の日、この窯元へ東京から来られた服飾デザイナーの方を案内した時のことでした。

戦前に袖師窯で作られた陶製の制服ボタン

 ボタンは直径21mmほどの大きさで、裏側には服に縫い付けるための環状の足が付いています。表側には、8枚の花びらをかたどった縁取り(八稜)のなかに「工」の字が大きく刻まれています。この校章は、島根県立松江工業高等学校(松江市古志原4丁目)でかつて使われていたものです。同校は松江市立工業学校修道館として、明治40(1907)年に創設されました。その後、学校名は県立工業学校修道館、松江第一工業学校、昭和21(1946)年に松江工業学校、同23(1948)年に松江工業高等学校へ変わります。「工」一文字を刻んだ校章は、松江工業学校の時代まで使われていました。

 このボタンの作り方を尾野さんに伺いました。材料の粘土は、服に付けたとき垂れ下がらないように、軽い「半磁器粘土」を使います。ボタンの原形から作った石膏型のなかに粘土を詰め、裏側を削って足の形に整えます。粘土は乾燥させてから素焼きをし、釉薬をかけて本焼きをします。焼成すると15~16%縮んでしまうため、仕上がりのサイズを考えて作るのが基本です。このボタンは素焼きが終わった段階、完成前のものということになります。

 金属で作られていた制服ボタンが陶製に変わった理由は、いうまでもなく戦争です。昭和16(1941)年8月29日、「金属類回収令」が公布され、軍需物資を確保するため金属類の強制回収が始まりました。寺院の釣り鐘や銅像、橋の擬宝珠《ぎぼし》だけでなく、学生服の小さなボタンまでもが、供出されていたのです。同18(1943)年7月8日(火)の「島根新聞」に、「金ボタンに代る陶磁器 成功した県立工業試験場の試作品」の記事が掲載されています。この頃から県立工業試験場窯業部において、陶製の制服ボタンや帽章が製作され始めたことが分かります。記事には「早くも注文殺到」の文字が躍り、川本高等女学校(現在の県立島根中央高等学校)、今市商業学校(現在の県立出雲商業高等学校)などから注文が殺到していると書かれています。大量に注文があった場合は、専門の窯業者を斡旋すると書かれていますので、松江工業学校には袖師窯が斡旋されたのでしょう。

 今年もまた暑い夏がやってきました。毎年、この季節を迎えると、私たちは戦争の悲惨さや平和の尊さに思いを新たにします。制服の胸のボタンが輝きを失う、そんな時代が再び訪れることがないように。戦争の記憶を刻んだ小さな歴史資料は、今も私たちに語りかけています。

装いに彩りを添える色鮮やかな現代の陶製ボタン(袖師窯)