第135話 奈良時代、出雲に鯉はいたか?
平石 充 主席研究員
(2024年8月21日投稿)
奈良時代の出雲の姿を今につたえる『出雲国風土記』(以下『風土記』)。島根県古代文化センターでは昨年『出雲国風土記 校訂・注釈編』という解説書を刊行しました。この本の特色は、とにかく古い写本(細川家本)の文字を変えずに大切にするところにあります。これに対し、20世紀に出された解説書、たとえば加藤義成氏の『出雲国風土記参究』などは、新しい写本の文字を本文に採用したり、本文の文字を自分の説に従って変更しています。当時は普通のことでしたが、写本の文字を改変することが引き起こす問題について考えてみたいと思います。
島根郡にあった池である法吉陂《ほっきのつつみ》に生息する動物の記述について、『風土記』の写本をみてみましょう。
A古代文化センター本では鴨《かも》と鮒《ふな》の間に「●」の文字が書かれ、B出雲風土記鈔《ふどきしょう》ではこの文字が「鯉《こい》」となっています。元の形に近いのは、A古代文化センター本です。
現存最古の『風土記』写本である細川家本にもこの文字はありますが、「●」という漢字はありません。細川家本のこの文字は「誤字ではないか?」と推測する記号「ゝ」が付けられていました。偏《へん》は下の鮒の字と同じ「魚」、旁《つくり》は上にある鴨と同じ「鳥」ですので、細川家本を写した人は、上下の文字に引きずられて、何時の頃か、写本になかった新たな「●」が書かれてしまったと考えたわけです。ただし、細川家本は本文の文字を変えることはしていません。なお、上記の理解が正しいかどうかは分かりません。似た文字である「○《つぐみ》」や「鵠《くぐい》」をだれかが写し間違えた可能性もあります。
さて、「●」文字は古代文化センター本を含む後の写本にも伝えられていますが、さらに出雲風土記鈔が書かれるまでの間に、誰かがこれは「鯉」だろうと推測して、文字を改めたのです。出雲風土記鈔は、最近まで写された時代は新しいものの重要な写本と考えられていたため、法吉陂には鯉がいたことになってしまいました。加藤義成さんの『出雲国風土記参究』も鯉がいる、としています。
この一ヵ所を除くと『風土記』には動物の鯉は全く登場しませんので、「●」を鯉と読まない古い写本に従うなら、奈良時代に出雲には鯉はいなかったことになります。ただし、鯉と鮒は動物としては近い種であるため、私は実際には鯉もいただろうと思っていました。しかし、鳥取県の門脇隆志さんの研究によると、古代山陰の遺跡からは鮒の骨は出土するものの、確実な鯉の骨は確認されておらず、いまのところ、『風土記』の古い写本の記載の通りなのです。
「●」を「鯉」とする本文を採用するB出雲風土記鈔は、『風土記』についての現存最古の注釈書です。そして、その注釈部分を読むと、やはり「●」の文字は誤りで、この字は誤字であろう、出雲に鯉はいなかったと解説しています。また、鯉が出雲に生息するようになった理由として、江戸時代の初めに松江藩主であった堀尾忠氏《ただうじ》がはじめて岡山から鯉60匹を松江城の堀にもじ移し、これが洪水によって出雲全体に広まったと記しています。
この説明が歴史的に正しいのかどうかはまた別に検討する必要がありますが、写本の文字を自分の推測に基づいて勝手に変えることが、のちのちまでよくない影響を及ぼすことは、理解いただけたのではないかと思います。
●=魚鳥(へん=魚、つくり=鳥 の文字)。この文字については、現在地名や苗字などにみることができますが、古代の漢和辞典である『新撰字鏡』、現代の諸橋轍次『大漢和辞典』にはみえず、国字(日本国内で創作された文字)ではないかと考えられます。
○=重鳥(へん=重、つくり=鳥 の文字)