いまどき島根の歴史

第136話 幕末を生きたある僧の選択

矢野 健太郎 専門研究員

(2024年8月28日投稿)

 まだまだ暑い日が続いていますが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。ここで一服。冬景色の神社の写真をご覧ください。少しは暑さも緩和されたでしょうか。

雪景色の豊栄神社(2011年ころ)

 石見銀山にある写真の神社は、明治3(1870)年に成立した毛利元就《もうりもとなり》を祭神とする大田市大森町の「豊栄《とよさか》神社」です。今回は豊栄神社の数奇な歴史について紹介したいと思います。

 豊栄神社の前身は、洞春山長安寺《とうしゅんざんちょうあんじ》という曹洞宗の寺院でした。その成立は、毛利氏が石見銀山を支配していた戦国時代、家臣の林就長《なりなが》によるものとされ、毛利元就の木像が祀《まつ》られた寺院でした。こうしたことから長安寺は、幕府領にある寺院であるにもかかわらず、江戸時代を通して長州藩と密接な関係を保ち続け幕末を迎えました。

 慶応2(1866)年、石見国を激震が襲います。「幕長戦争」の勃発です。幕長戦争は、その後の幕末維新期の情勢を決定づけることになったとされる幕府と長州藩との戦いで、長州藩の勝利に終わりました。その結果、長州藩は浜田藩領と幕府領を慶応から明治初年にかけて支配することとなりました。

 長安寺をめぐる情勢も大きく変わり、慶応3年から長州藩士たちによって、元就像を祀る社殿や鳥居などが作られ、神社としての様式が整えられていきました。一方で、長安寺の住職であった長安寺東流は、明治2年においても焼失していた本堂の再建を願い出ており、寺院の再興を強く望んでいました。

 この頃、明治政府より神仏をいっしょに祀る「神仏混交」の禁令が出され、石見国においても神社に附属していた寺院の僧6人が、還俗《げんぞく》して神職となる動きがありました。こうした維新期の御一新の波は、長安寺にも訪れます。

 明治3年、毛利元就に「豊栄」の神号が与えられたことを受けて、長安寺東流は、大きな決断を下すこととなりました。同年5月に、長安寺東流は、還俗して祭礼のあり方を改めたいという願書を、当時の浜田県役所に提出し、その願いが承認されました。さらに、その翌月には「是迄長安寺東流与唱来候所、以来長安右近与改名仕候間、此段御届奉申上候」と、これまで「長安寺東流」と称してきた名前を「長安右近」へと改名することが届け出されており、承認されました。

 これにより名実ともに江戸時代を通じて、毛利元就木像を祀ってきた「長安寺」は、明治維新を機に毛利元就を祀る神社の「豊栄神社」として生まれ変わったのでした。

 現在、豊栄神社は社殿の修復や境内地の整備が行われ、往時の姿が復元されています。これからの秋の行楽シーズンに、幕末の息吹を体感しに石見銀山を訪れてみてはいかがでしょう。

現在の豊栄神社