第139話 出雲神楽の取次業者
石山 祥子 専門研究員
(2024年9月25日投稿)
今年も秋祭りのシーズンを迎えました。島根県内、とくに出雲・石見地方では代表的な秋祭りの奉納芸能として「神楽」を思い浮かべる方も多いでしょう。今日の神楽は、神社の氏子や地域住民などで構成された神楽社中(団体)による奉納が多く、地元に社中がない場合には近隣の社中に依頼することも珍しくありません。
現代では奉納を依頼する際、電話やメール、SNSを通じて社中とやりとりするのが一般的かと思います。しかし、明治時代の一時期には、神楽奉納を希望する地域と社中の間を取り持つ業者が存在していたことが史料から明らかになりました。
海潮《うしお》山王寺神楽和野社中(雲南市大東町山王寺)が所蔵する「出雲神代神楽・山王寺神楽について」は、社中の代表も務めた三島知福《ともよし》(1901~88)による手書き原稿で、自身の経験と年長者からの聞き取りなどを元に、同社中が活動を始めた明治期以降の出来事が記録されています。
この中に「神楽の語り伝い 神楽の取次所」と題した一文がありますので、今回は内容を意訳してご紹介します。
明治10(1877)年頃から明治36(1903)年頃まで、八束《やつか》郡講武《こうぶ》村(現在の松江市鹿島町講武)に神楽の取次所があった。担当者は柳兵衛という人だった。当時は通信手段が乏しく、神楽を依頼するために遠方からでもすべて2人連れで、歩いて社中のところまで来たそうだ。宍道湖北岸、日本海沿岸地域からは、年間を通じて50ヵ所くらいから依頼が続いていたので、そこに目を付けた柳兵衛がこれらの地域からの依頼を全て取り次ぐようになった。同地域の人は、山王寺まで足を運ばずとも、柳兵衛に依頼しておけばよく、便利だったので、この地域からの神楽の依頼はますます増加したそうである。
鹿島町講武から大東町山王寺までは、車でも40分ほど(約25キロ)かかります。近隣とは言い難い松江市北部から、山王寺の神楽社中への依頼が年間50件もあったことに驚かされますが、ここに柳兵衛は商機を見出したわけです。実際に取次業を始めてから、依頼はさらに増加したとあるので、彼のもくろみは大当たりしたといえるでしょう。
出雲地方では、江戸時代まで主に神職によって神楽が舞われていましたが、明治時代に入り、神職による神楽が禁じられると、その代わりに民間人による神楽が台頭しました。
しかし、神職からの反発もあり、明治5(1872)年と同6(1873)年の2度にわたって、島根県は民間人による神楽を禁止します。ところが、明治8(1875)年に方針を転換し、これを容認するに至りました。「神楽の取次所」が設けられた明治10年ごろは、ちょうど民間人による神楽が認められ、活動がより活発になる時期と軌を一にします。
柳兵衛の商売が成り立っていたのは、この地域での近代的な交通網や通信手段が整うまでの短い期間だったと想像されます。民間人による神楽が勃興していく時期に、神楽社中の活動範囲を拡大させ、祭りの奉納芸能として神楽を定着させたアシスト役として、柳兵衛のような業者が果たした役割は決して小さくないと言えるでしょう。