第140話 海城で軍船から浦を守る
目次 謙一 専門研究員
(2024年10月2日投稿)
島根半島東部の日本海側では海岸線が入り組んでいて、あちこちにある浦では豊かな自然を満喫できます。時間を忘れて穏やかに過ごせる場所ですが、尼子《あまご》氏と毛利《もうり》氏が争った戦国時代には、軍船の活動によって緊迫した状況に置かれていたのです。
1562(永禄5)年以降、出雲国で支配地域を広げていった毛利氏に対し、尼子氏は軍船を組織して島根半島周辺の浦々をおびやかしました。尼子氏方軍船の動向報告を受けた毛利元就《もとなり》らは、その内容に応じて各地の味方へ連絡し、対応を促したのです。軍船が日本海を西に向かった場合には、宇龍《うりゅう》(出雲市)を含む半島の西端一帯に関わる家臣へ、警戒を怠らないよう命じています。
逆に東へ動いた場合は、半島の東端に位置する美保関《みほのせき》(松江市)への攻撃の可能性を懸念し、大橋川河口部の馬潟(同)にいた家臣へ十分な用心を指示しています。日本海を広く移動する尼子氏方軍船の襲撃をできる限り防ぐために、毛利氏はその動向を察知すると、広範囲で情報を共有していたと言えるでしょう。
しかし、重要拠点ほど相手方の軍船による攻撃目標となり、戦いが起こりやすいのは明らかですから、そこには海域を守り、軍船の拠点となる海城《うみじろ》が築かれます。その一つ加賀《かか》浦(松江市)は、島根半島の一大拠点である新山《しんやま》城(同)から隠岐へ向かう陸海の交通路の拠点でした。
1571(元亀2)年、水運との関わりが深い領主・湯原《ゆばら》氏が、毛利氏から同浦での築城と駐留を命じられています。毛利氏は、守備兵の増強や築城道具の支給、軍需物資の備蓄といった手立てを講じ、湯原氏を後押ししました。築城工事の負担を周辺の村々に課し、加賀城(現在の要害山城跡)の整備に力を入れています。
城に入った湯原氏のもとでは、尼子氏方軍船の動きがあれば、周辺の浦々から連絡が入るような態勢が組まれていました。実際に、隠岐国の尼子氏方勢力の降伏という情報を湯原氏は入手して、富田《とだ》城(安来市)の城主へ報告しています。このことは、海城を拠点とする情報収集が挙げた成果と評価できるでしょう。
このように緊迫した軍事状況がかつて存在したことを忘れさせるほど、現在の加賀浦では美しい海の風景を満喫できます。あらためて平和の尊さを実感させられます。