第142話 墳丘墓の構造変化からみた島根の弥生社会
今福 拓哉 主任研究員
(2024年10月23日投稿)
古墳時代には墳丘を持つ墓の「古墳」があるように、弥生時代にも墳丘を持つ墓の「墳丘墓」があることをご存じでしょうか。「墳丘」という言葉が含まれていることから、土を盛り、マウンド状の高まりを造る墓であることが想像できると思います。島根の弥生時代の墳丘墓には、墳丘の斜面に石を貼る特徴をもつ「方形貼石墓」のほか、方形貼石墓の四隅角が突出する「四隅突出型墳丘墓」が存在します。
出雲市に所在する西谷墳墓群では弥生時代後期後葉以降、四隅突出型墳丘墓が造られており、大型の四隅突出型墳丘墓は出雲を支配した王たちの墓と考えられています。これらの権力者たちの墳丘墓上では多量の土器が出土しており、被葬者の死に際し、荘厳な葬送儀礼を実施していたことが想定されています。
西谷墳墓群での儀礼の状況から、島根の弥生時代後期の墳丘墓では、土を盛り、貼石を施すなど、墳丘墓が完成した後に被葬者を埋葬するための墓穴を掘りこみ、埋葬するといった一連の葬送儀礼が想定できます。こうした墳丘墓の築造と墓穴の掘りこみは、西谷墳墓群より古い時期でも確認でき、後期中葉の島根県邑南町所在の順庵原1号墓でも発掘調査により同様の構造が分かっています。
一方で、山陰最古級の方形貼石墓である江津市所在の波来浜《ならはま》遺跡A-2号墓(弥生時代中期)では、発掘調査の結果、順庵原1号墓と異なり、墳丘墓の構築と同時並行で墓穴を掘り、被葬者を埋葬していることが分かっています。
つまり、弥生時代の中期と後期では同じ墳丘墓であっても、被葬者を埋葬するタイミングが違うことが指摘できます。それでは墳丘墓で行われる葬送儀礼の様相が変化する理由とは何でしょうか。
中期の墳丘墓では、被葬者の死後、速やかに埋葬を行うことで地域の代表者の死という社会的不安定な状況を払拭するといった状況が想定できます。一方で後期の墳丘墓では、一定の時間をかけてでも計画的な墳丘墓の築造や被葬者の埋葬を行い、墳丘墓上を舞台として首長権力の継承を目的とした葬送儀礼が行われたと考えられています。
このように、同じ墳丘墓でもその構造は中期と後期では異なる状況が指摘でき、墳丘墓に求めた役割に差異が存在していたことを把握できます。なお、当時の墳丘墓上で執り行われる葬送儀礼が時期的に変化することをふまえると、両時期の山陰弥生社会は異なる様相であったとも考えられます。弥生時代中期と後期の間には、社会を大きく変容させるようなインパクトが生じたとみることも可能ではないでしょうか。