第143話 集められた暮らしの道具
間野 大丞 センター長
(2024年10月30日投稿)
「現役引退」。秋から冬にかけて、スポーツをはじめ各界から、この言葉が聞こえてきます。私たちは、悲喜こもごもの人間模様に触れるたび、心からの敬意を示すとともに、あらたなステージでの活躍にエールを送ります。
これは道具・モノの世界にも当てはまるのではないでしょうか。今回は、邑南町郷土館に集められた「淀原《よどはら》焼」の場合を紹介しましょう。淀原焼は、邑南町淀原で作られていた焼きものです。
同町では、古くから焼きものの生産が盛んに行われていました。町内には、古墳時代から平安時代にかけて作られた須恵器の窯跡が多数あり、県内有数の生産地でした。明治時代以降は、瓦の生産が盛んになりますが、陶器も生産されていました。
淀原焼の始まりは、明治時代の初め頃と伝えられ、昭和30年代まで作られました。1989(平成元)年、瑞穂町教育委員会(当時)が窯跡の調査を行ったときには、すでに登り窯は失われ、作業場1棟が残るだけでした。
2015(平成27)年、私は教育委員会の方と一緒に、元経営者から次のようなお話をうかがいました。
焼きものの原料となる粘土は、近くの田んぼから農閑期に採取し、燃料となるアカマツも近くの山から入手していた。製品は、10部屋ある登り窯で作っていた。瓦と土管は経営者と住民で作り、「はんど(水がめ)」や「すり鉢」などの陶器は、轆轤《ろくろ》を使う技術者が地元にいないため、江津市江津本町から職人を招いていた。職人は経営者宅に年数回、2週間ほど寝泊まりして製作にあたった。
こうした聞き取りによって、地産地消のものつくりと、職人の出稼ぎのようすが具体的にイメージできます。淀原焼の焼きものは、町内の家々で活躍し、住民の暮らしを形作ってきたことでしょう。
昭和40年代後半から50年代になって、瑞穂町文化財愛護協会が町内にある淀原焼を収集します。そして1985(昭和60)年に開館した瑞穂町郷土館(現在の邑南町郷土館)でさまざまな民具とともに展示公開を始めました。暮らしの現場から引退してしまっても、民俗文化と生活史の貴重な資料として、また先人の暮らしの知恵や工夫を学ぶ実物資料として活用がはかられています。
文化の秋、新天地で活躍している民俗資料との出合いを楽しみに、博物館・資料館を巡ってみてはいかがでしょうか。