いまどき島根の歴史

第145話 僧になろうとした古代の出雲人

 野々村 安浩 特任研究員

(2024年11月20日投稿)

出雲市直江漆治周辺

 写真では、出雲平野の特徴である築地松《ついじまつ》の家が見えます。県道161号斐川出雲大社線と275号十六島《うっぷるい》直江停車線の交差点、このあたりは出雲市斐川町直江の漆治《つつじ》地区です。近くには漆治菅沢研修館があります。

 今から1300年近く前、この周辺は出雲郡漆治《しつじ》郷であったと考えられています。この郷出身の日置部君稲持《ひおきべのきみいなもち》ら出雲国の2人が僧になろうとした、743年の優婆塞解《うばそくげ》が、東大寺の正倉院に残されています。

 当時は勝手に出家して僧侶になることはできず、朝廷への推薦、そして許可された者だけがなれたのです。その際の推薦書が優婆塞解と呼ばれ、優婆塞は仏教信仰のあつい出家前の男性のことです。女性の場合は優婆夷《うばい》といいます。

 現在、畿内を中心とした20余人のこの時期の優婆塞解が残り、そこには各人がどんな経典を学んだのか、習った師僧の名や推薦者名、修行の期間などが記されています。

 741年、聖武天皇は仏教の教えによって災害を除き豊穣を願う、いわゆる「鎮護国家《ちんごこっか》」の目的のために、全国に国分寺・国分尼寺を建立し、僧寺には20僧、尼寺には10尼を置くという「国分寺建立の詔」を発布しています。

 また、これ以前には、出家者の学業内容が不十分であるために、その資質を高めるために法華経《ほけきょう》あるいは最勝王経《さいしょうおうきょう》をそらんじ、仏前での修行が3年以上の者を選ぶとの命令が出ています。法華経と最勝王経は「鎮護国家」のための重要な経典です。

 優婆塞解は、このような僧尼の増員の要請や出家者の資格を厳格化にする動きの中で、臨時の出家の申請のために自主的に作成・提出されたと考えられています。20余人の優婆塞解の内容を見ていくと、前述の二経のいずれかを誦するものは少なく、修行期間は8~10年が多い傾向です。また、師には興福寺や薬師寺など都周辺の寺院の僧が多くなっています。

 それでは、出雲国の2人はどうでしょうか。稲持は最勝王経のみの暗誦、もう一人(名は不明)には維摩経《ゆいまきょう》・金光般若経《こんこうはんにゃきょう》など4つの経典名が記されています。後者は薬師寺の平註が師僧(稲持の師僧名は不明)ですから、ふたりとも都周辺の寺院で修行したことでしょう。残念ながら修業期間は記されていません。2人を出身地の出雲国の国司多治比国人《たじひのくにひと》が推薦しています。

 稲持は当時40歳です。この学業内容で審査に合格して、希望とおり出家することができたのでしょうか。