第146話 聖武天皇の即位と「出雲国風土記」
橋本 剛 主任研究員
(2024年11月27日投稿)
今からちょうど1300年前の724年、元正《げんしょう》天皇の譲位をうけて、皇太子・首皇子《おびとのみこ》が即位しました。ご存じ、聖武天皇です。即位にあたり詔《みことのり》を発した聖武は、自身がいかに正統な天皇であるかを誇らしげに語ります。ただしここまでは、天皇即位の際にはよくあること。
異例なのはこの後で、当時正規の官職に就いていた全官人に、勲位《くんい》という位階を授けると宣言したのです。勲位は通常、武功を上げたものに対する位階ですが、慶事である即位に伴い、これだけ大規模に与えるのは、まさに空前絶後の対応でした。
この時の勲位授与の対象に地方の郡司も含まれていたことを、私たちは733年に編さんされた「出雲国風土記」から知ることができます。
風土記には「勲十二等」という勲位を持つ郡司が13人記されていますが、これ以前に出雲国で軍事衝突があったという記録はみえません。
従って、出雲国内の郡司が勲位を保持している理由は、武功ではなく、聖武天皇即位時の授与であったと考えざるをえないのです。
さて、これまで述べてきた事情からすれば、風土記が完成した733年の段階で勲位を持っている郡司は、聖武即位の724年時点で既にその職にあった可能性が高いといえます。一方で、風土記からは当時の出雲国の郡司が34人いたことがわかりますので、残りの21人は724年以降に初めて郡司になったことになるでしょう。
一見、違和感を持たれないかもしれませんが、郡司は制度上、終身官(任期がなく、生涯にわたり勤めるべき官職)とされているのです。にもかかわらず、9年の間にこれだけ多くの郡司が新たに就任している事実は、前任者の死亡などの理由を考慮しても、少し不自然ではないでしょうか。
ここから浮かび上がってくるのは、郡司職をめぐる争いです。郡司は特権的な地位であり、郡内での影響力は計り知れません。そのため、郡司への就任を希望する豪族たちは多数存在したと考えられます。とすれば、郡司に就いているものを追い落とそうと画策する者がいても不思議ではありません。こうしたことから、長期にわたって郡司の職を保持するのは困難だったのでしょう。
あるいは、自身の一族へ安定的に郡司の地位が受け継がれるように、早めに退いて一族内の別の人物を後継の郡司に就かせようとする者もいたかもしれません。いずれにせよ、終身官であるはずの郡司が短期間で交替するということの背景には、郡司という職をめぐる熾烈《しれつ》な争いがあったと想定してよいでしょう。
1300年前に即位した聖武がとった予想外の行動は、「出雲国風土記」を媒介に、彼の意図せぬ形で郡司世界の実態をわれわれに伝えてくれているのです。