第147話 国堺の関所はどちらの国にあったか
平石 充 主席研究員
(2024年12月4日投稿)
旧国名として現在に残る出雲・石見・隠岐の行政区分は、奈良時代に完成しました。この旧国は今の県とは異なり、旧国堺《くにざかい》を越えての人の出入り管理していました。奈良時代の地方行政は戸籍に基づいており、本籍地から人が離れると税の徴収ができなくなるためです。そのため道路上の国堺には関が置かれていました。では、国堺にあるとされる関は正確にはどちらの国にあったのでしょうか。
全国の関を見ると特に重要な三関《さんげん》、東山道の不破・東海道の鈴鹿・北陸道の愛発《あらち》の関は、いずれも都から遠い方の国にあります。これは意外に感じるかしれませんが、古代の関所には、都にいる皇族が地方に脱出して反乱を起こすことを、外側の国が防ぐ意味もあったためです。
天平5年(733)に完成した『出雲国風土記』は、国堺にあった関(剗《せき》と書く)についてもっとも詳細に記した史料で、隣国との堺に合計9ヵ所の剗が見え、3種類に分類できます。
①は名前の書かれている剗で、手間《てま》剗と戸江《とえ》剗があります。②は名前が書かれておらず、常に置くとされる剗です(常剗《つねのせき》)。③は政《まつりごと》のあるときに権《かり》に置く、とされるものです(権剗《かりのせき》)。
剗のあった国を考える上で重要なのは、①と、②・③の違いです。まず①については、最寄りの郡家からの距離が明示されています。これに対し、②、③はいずれも国堺の目標物は別にあり、その経路上に剗がある、と注釈されているだけです。
写真に示した例では、備後国恵宗《えそ》郡堺にある荒鹿《あらか》山に通じる道路上には、「常に剗がある」といった具合です。
実例を見てみましょう。①に当たる戸江剗は、現在の島根町美保関町森山の福島造船のあたりにあったと考えられていますが、「古関」「関谷」など、関の地名が残っています。これは手間剗(安来市伯太町安田関)も同様です。
これに対し、②に含まれている正西道の石見国堺には、出雲国側に関の地名は残っておらず、石見国側には、中世・近世には島津屋《しまつや》関(大田市朝山町仙山)がありました。また、現在、国道9号線で多伎町から大田市に抜ける峠を仙山《せんやま》峠といっていますが、この仙山は関山《せきやま》に由来すると考えられます。
このように見ると、①名前のある剗だけが出雲国内にあった出雲国管理の剗で、②③は隣国内にある隣国管理の剗であり、そのために名前も記されていないのでしょう。
さて、最初の質問に戻りますが、名前のある剗は二つとも伯耆出雲国堺の出雲国側にありますので、やはり原則として都から遠い側の国に剗が置かれたと考えられます。