第152話 道長暗殺計画?に関わった隠岐の流人・平致頼
吉永 壮志 専門研究員
(2025年1月22日投稿)
隠岐に流された歴史上の人物といえば、後鳥羽《ごとば》上皇や後醍醐《ごだいご》天皇、小野篁《おののたかむら》が真っ先に思い浮かびますが、そのなかに平致頼《たいらのむねより》という者がいたことはあまり知られていないのではないでしょうか。
致頼は昨年放映された大河ドラマ「光る君へ」の主人公である紫式部《むらさきしきぶ》と同時代を生きた人物で、鎌倉時代中期に編纂《へんさん》された説話集『十訓抄《じっきんしょう》』には「世に勝れたる四人の武士」として源頼信《みなもとのよりのぶ》、藤原保昌《ふじわらのやすまさ》、平維衡《これひら》とともに挙げられ、武勇に優れた者であったといえます。

(『十訓抄』[国立公文書館デジタルアーカイブをトリミングして傍線、囲みを加筆])
その「武士」と称される4人のうち、維衡と致頼は長徳4年(998)に伊勢の地で合戦におよび、そのことが問題となった結果、維衡は淡路に移され、致頼は隠岐に流されました。長保3年(1001)に致頼は許され、都に呼び戻されるのですが、そのような武勇の者と評判の人物が後に藤原道長《みちなが》暗殺計画に関与したとうわさされたのです。
道長が自身の娘である彰子《しょうし/あきこ》を一条天皇のキサキにするなど、天皇と姻戚関係を築くことで絶大な権力を掌握していったことはよく知られるところです。その道長のライバルが、彰子と同じく一条天皇のキサキであった定子《ていし/さだこ》の兄弟である藤原伊周《これちか》と隆家《たかいえ》で、二人は道長の甥《おい》にあたります。
花山法皇に弓を射たことや道長の姉で一条天皇の母である東三条院(詮子《せんし/あきこ》)を呪ったことなどにより、長徳2年に伊周は大宰権帥《ごんのそち》、隆家は出雲権守《ごんのかみ》に左遷されたものの、2人とも病を称し途中で留まり、結局、任地に赴く前に赦《ゆる》されて都に戻り、後に公卿《くぎょう》に復することとなります。ただ、道長に恨みを抱いていると思われていたためか、伊周と隆家による道長暗殺計画のうわさが寛弘4年(1007)に流されます。
藤原実資《さねすけ》の日記『小右記《しょうゆうき》』の内容を項目別に分類した目録『小記目録《しょうきもくろく》』には「伊周・隆家、致頼に相語らい、左大臣を殺害せんと欲する間の事」と記されています。この記事の前後には「左大臣、金峯山に参る事」、「左頭中将を勅使として、左大臣途中の安不を問い遣わす事」とあり、左大臣であった道長が吉野の金峯山詣《きんぷせんもうで》の際に暗殺計画がうわさされ、道長の安否を確認するための使者が派遣されたことが分かります。そのうわさでは暗殺計画の首謀者が伊周と隆家、共謀者が致頼で、武勇の者として知られる致頼はおそらく暗殺の実行役とみなされたのではないでしょうか。
もちろん、実際には暗殺が行われることはなく、道長は金峯山詣を終え、無事都まで帰っています。伊周は寛弘7年に正二位、隆家は寛弘6年に中納言になるなど、寛弘4年以降も出世を遂げていることから、暗殺計画はあくまでうわさに過ぎず、道長も表面上はこのうわさを気にしなかったのではないかと思われます。
幻の道長暗殺計画に隆家、致頼の関与がうわさされ、隆家は出雲権守として左遷された経験があり、致頼は隠岐に流されたことがあるなど、いずれも島根に関わるため、「光る君へ」の放映が終わったことを惜しみ、本コラムで紹介しました。
ちなみに道長は、暗殺のうわさがあった20年後の万寿4年(1027)12月に62歳で亡くなっており、死因は糖尿病による合併症と考えられています。