第153話 陸軍省所轄時代の松江城と浜田城
土橋 由奈 特任研究員
(2025年1月29日投稿)
1873(明治6)年1月14日に明治政府から出された「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」、いわゆる廃城令《はいじょうれい》により全国の近世城郭《きんせいじょうかく》は「存城」と「廃城」に分けられ、島根県においては松江・浜田両城が「存城」、津和野城が「廃城」となりました。ここでいう城郭の存廃とは、軍用地利用のために陸軍省《りくぐんしょう》が城郭を所轄する=存城という意味合いで、存城になった城郭は、軍用地としての利用を前提に管理されました。今回は明治の初めごろから20年代までの松江城と浜田城に焦点を当て、陸軍省の公文書をもとに同省による管理の様子を見ていきたいと思います。
陸軍省所轄=存城となった松江・浜田両城ですが、当初、陸軍省は存城を管理運営するにあたりいくつかの問題を抱えていました。まず1つ挙げられるのは、国防の体制、さらに言えば全国規模で見た国防の範囲(文書内には「防禦(御)線」と出てきます)が定まっておらず、松江・浜田城が軍用地として利用されるかどうか確定していなかったということです。1874(明治7)年の文書によると、当時、浜田県(明治9年4月島根県へ合併)は浜田城跡の公園化を望んでいました。そのため、城跡を今後軍地利用するのかどうか陸軍省へ伺いを立てています。これに対し陸軍省は、「防御線」が確定し、諸兵の配置の有無が決定しない限り、公園化は「決定難致候」(決定しがたい)と回答しています。浜田県は1976(明治9)年にも再度浜田城の公園化を申請していますが、陸軍省は「難聞届候」(聞き届けがたい)と却下しています。
そして、各存城の範囲に関する問題も抱えていました。①存城の範囲が確定していないこと、②城郭の内外に士族の邸地をはじめとした民有地が入り組んでいたことです。
②が解決しない限り①を確定させることは難しく、陸軍省も島根県もこの問題に難渋していました。1877(明治10)年、島根県は浜田城に関する伺いを、中四国の城郭などの施設管理をしていた第五方面へ出しています。廃城令以前から浜田城域にいる住民の借地料について、陸軍所轄の区域が判然としないため、陸軍省に収めるべきか、従前通り地方行政を担当する内務省に納めるべきか困惑していたのです。また松江城についても同様で、内務省から陸軍省へ、城郭内にある城山稲荷神社の神職宅は存城範囲内とみなすべきかどうか伺いを出しています。おそらく島根県から内務省へ問い合わせがあったものと考えられます。
陸軍省は1880(明治13)年、存城内にある士族邸地の扱いに対し、「悉皆買収」(全て買い上げる)との意向を示しました。特に松江城については城郭全体が狭小なため、後々兵隊を置く際に住居人がいるままでは「警戒上不便宜ナル所アリ」という判断のもとの意向でした。
また、①の問題についても少しずつ動き始めます。1879(明治12)年の文書によると、第五方面から調査員が出張し、松江浜田両城の取り調べを行ったことが分かります。当時島根県は、城郭の境界を石垣までとみなしていましたが、調査員と県官の詮議の結果、仮に内堀から約90㎝外側を境界として定め境標を設置することになりました。そして、その周囲の官民有地についても調査を加えています。浜田城については、調査のうえ地図上で境界を定め、境界の民有地については買収の方向で価格等を引き続き調査することになりました。
このように陸軍省は、境界を設定し、城郭境界内外にある民有地について整理をしたうえで買収しようと動いていたようですが、1884(明治17)年頃までの文書を見るに状況はあまり進展していない様子がうかがえます。ついには1889(明治22)年、陸軍省は練兵場や射的場の増置を計画し、「存城」のうち存置を要しないと判断した松江・浜田城を含む20の「旧城郭」やその他の施設を公売すると決定しました。そして両城は旧藩主に払い下げられ、それぞれ城郭保存の道を歩むこととなります。
一方、陸軍省所轄だからといって敷地内への出入りが禁止されていたわけではありませんでした。松江城では1873(明治6)年に博覧会が開かれたほか、天守の縦覧、運動会など様々な催しが行われていました。また、両城について、一部の土地の拝借願がいくつか出ており、陸軍省の承認も得ているので、範囲によっては比較的自由に使える箇所もあったようです。中央の意向と地方の実態の両側面をふまえ、今後も検討していく必要がありそうです。
以上、廃城令~公売決定までの松江・浜田両城の状況を、陸軍省による管理を軸に見ていきました。現代では、近世城郭といえば天守や石垣などの施設がそびえる観光地としての要素が強いですが、江戸時代にはあくまで軍事施設でした。そして明治になり、陸軍省を中心として新たに軍事を編成するために行われた城郭の整理が「廃城令」でした。この「廃城令」を契機に、引き続き軍事拠点として、はたまた保存や公園化へ向けて、それぞれの城郭が新しい道を歩みはじめました。そうした近代における城郭の行方が、現代の私たちが目の当たりにしている城郭の姿へと繋がっているのです。