いまどき島根の歴史

第154話 多様な墳丘形態からみたしまねの弥生社会

 今福 拓哉 主任研究員

(2025年2月5日投稿)

 島根県域の弥生時代のお墓の代表格として四隅突出型墳丘墓があります。墳丘を持つお墓である墳丘墓の四隅角が突出した形のお墓で、形態的に非常に特徴的な形となっています。弥生時代後期以降に山陰地域で普遍的に造られ、島根県域では出雲市以東の日本海沿岸部と中国地方山間部の邑南町に分布を確認しています。昨年の11月には島根県埋蔵文化財調査センターが発掘調査した松江市朝酌町所在の朝酌矢田Ⅱ遺跡でも新たに四隅突出型墳丘墓を発見しています(写真1)。

写真1 朝酌矢田Ⅱ遺跡発見の四隅突出型墳丘墓(島根県埋蔵文化財調査センター提供)

 これらの四隅突出型墳丘墓は平野単位を超えて各地に分布しており、特異な墳丘形態であることを考慮すると、単なる偶然ではなく、ある程度広域的な地域で集団の代表者のお墓として共通した墳丘形態を採用していることが想定できます。さらに、お墓に共通性が認められる地域間には強い結びつきがあると指摘されています。

 同時に、各地で造られる四隅突出型墳丘墓には墳丘規模に格差が生じていることもわかっています。出雲市の西谷墳墓群では長軸30mを超える大型の墳丘を確認していますが、朝酌矢田Ⅱ遺跡の四隅突出型墳丘墓は1辺10m程度の大きさであり、その差は明瞭です。大型墳丘と小型墳丘に埋葬される被葬者の社会的なランク差が生じていることを容易に想定できると思います。

 このように弥生時代後期には、島根県域において四隅突出型墳丘墓を各地集団の首長墓として採用し、その規模により首長間の格差を表す社会が広がっていたと考えられます。ただし、四隅突出型墳丘墓と形態が異なる墳丘墓も存在しています。松江市邑生町の客山墳墓群《きゃくさんふんぼぐん》は盛土を持たず、地山を削り出すことで墳丘の形を造る台状墓です(写真2)。

写真2 客山墳墓群1号墓(台状墓)
(島根県埋蔵文化財調査センター提供)

 島根県域の墳丘墓は出現以降、必ず貼石が伴っており、石を利用して墳丘斜面を覆っていました。これに対し、台状墓は貼石などの礫の利用が認められないことから、新たに島根県域に出現した墳丘形態と評価できます。この台状墓の規模をみると一辺10m程度と小型の四隅突出型墳丘墓に近く、大型のものは確認されていません。台状墓は大型の四隅突出型墳丘墓と墳丘形態や規模が異なっており、その被葬者は各地集団の首長より下位層と評価できます。

 この台状墓は島根県域でも特に宍道湖・中海沿岸付近に集中して分布していることがわかっています。宍道湖・中海は弥生時代には日本列島と大陸をむすぶ「海の道」の経由地として利用されていましたから、台状墓はこの環日本海交流の経由拠点を管理する首長の下にいた直接的に交通や交易に関与した人のお墓として築造された可能性はないでしょうか。