いまどき島根の歴史

第162話 生活必需品をつくっていた宇波の鋳物師

 目次 謙一 専門研究員

(2025年4月9日投稿)

 鋳物は、あらかじめ用意した型に溶けた金属を流し込んで作ったものです。身の回りでは、炊飯器の釜《かま》に鋳物が多く使われています。昭和以前の古い台所のカマドで、鉄製鋳物の釜や鍋が使われているのをテレビ番組や雑誌でみられた方も多いでしょう。

鋳鉄製釜(雲南市鉄の歴史博物館所蔵)

 これらを製作した人びとは鋳物師《いもじ》と呼ばれ、寺院の鐘のように大きな、注文生産の物も手がけました。鐘の製作には複数の鋳型を組み合わせて鐘全体の鋳型としたり、大きな炉《ろ》で材料をあらかじめ溶かしておくなど大がかりな準備が必要でした。できあがった鐘には寺院の僧侶や協力した人びとに加えて、鋳物師の名前も記されていることがあり、その歴史を知る手がかりとなります。

 鋳物に残された鋳物師の名前で古いものの一つは、1592(天正20)年製作の巌倉寺《いわくらじ》(安来市広瀬町)鉄製燈籠《とうろう》に残る、宇波《うなみ》(同)の加藤氏です。これ以降、同地では細田・新石《あらいし》・山崎・家島といった家の人々が鋳物づくりを手がけていました。第2次世界大戦時に軍需物資で徴用された鐘の記録によれば、鳥取県西部各地には江戸時代から明治時代にかけて宇波鋳物師が作った鐘が多数ありました。また、松江・出雲・雲南市でも同様に、鐘・鰐口《わにぐち》・茶釜など複数が確認されています。宇波鋳物師は広い地域から注文を受けて、鐘を数多く製作していたのです。

明治36(1903)年銘銅鑼《どら》(安来市宇波交流センター所蔵)

 一方、鋳物師は普段、鉄製の鍋・釜や銅製の仏具など生活に密着した品々を作っていました。

 1872(明治5)年の出雲地域「物産表」・鋳物や鍋の品目には能義郡(安来市)の記載があり、宇波での鋳物生産を反映したものと考えられています。これは、1877(明治10)年の『能義郡村誌』に、宇波村の鉄釜・鉄鍋が郡内他村よりも圧倒的に多い生産量で記されていることからも明らかです。明治20年代末から同30年代初めの「島根県統計書」によると、能義郡は鉄器生産金額で県内首位を占めていました。宇波が鋳物の主要な生産地であったことを示す事実といえるでしょう。

 その後、生活様式が大きく変化し、カマドで鋳物の鍋釜を使うことはほぼなくなりました。鋳物師と鋳物づくりが忘れ去られてゆく中で、残された製品や記録から、その様子が明らかになってきています。