第164話 美しい建築・石見焼登り窯
間野 大丞 島根県埋蔵文化財調査センター所長
(2025年4月23日投稿)
「貴兄と温泉津で逢う様にして下さい。
石見の窯を見せ一緒に松江へ行く様にお希ひします」
民藝《みんげい》運動の創始者、柳宗悦《やなぎむねよし》が昭和10(1935)年3月にしたためたはがきの一節です。「貴兄」とは島根県の民藝運動を推進した太田直行《おおたなおゆき》。太田に案内を頼んだ人物は、柳の盟友、英国人陶芸家のバーナード・リーチです。柳の強い推しもあったのでしょうか。リーチはほどなく、温泉津を布志名焼窯元の舩木道忠《ふなきみちただ》と一緒に訪れることになります。
柳がリーチに見せたかった「石見の窯」とは、石見地域において今も作られている焼き物「石見焼」の窯のことです。石見焼の窯は、製品を焼く部屋が階段状に10数室から20室以上もつながっている「連房式登り窯」です。規模が長大なだけでなく、部屋ごとに赤瓦の屋根が架けてあるところも石見の特徴と魅力といえます。

柳が石見の窯と出合ったのは、同6(1931)年5月4日から8日、太田の招きに応じて島根県の「工藝診察」に訪れたときでした。柳はこの時つづった紀行文の中で、「日本に窯多しと雖《いえど》も、石見の窯の如く見て美しきものはない。とりわけ温泉津の如きせまい谿谷《けいこく》にそれが集る時、どのカメラも画筆《えふで》も休んではゐられまい」と大絶賛しています(「雲探探美行」『柳宗悦全集著作篇第十二巻』1982年)。
柳は石見焼の登り窯をしっかりと目に焼き付けたのでしょう。工藝診察を終え、ひと月以上経った6月17日、太田に温泉津の窯場の写真を送るよう書簡を送ります。さらに翌月の8日にも「一枚持っていたい」から同じ写真を写真屋で複写して送ってほしいと依頼しています。こうして入手した写真が、同年に刊行した雑誌『工藝』10号の挿絵を飾りました。挿絵の解説で柳は「是程《これほど》見て美しい焼物の村は他にはない」と記しています。
柳が日本一と絶賛した温泉津の窯場は、温泉津やきものの里として整備され、周辺では今も三つの窯元が作陶を続けています。島根県には民藝ゆかりの窯元や作り手が数多くいます。もうすぐゴールデンウイーク。手仕事の現場を訪れる旅へ、出かけられてはいかがでしょうか。