いまどき島根の歴史

第165話 朝酌渡の重要性

 平石 充 島根県埋蔵文化財調査センター調整監

(2025年4月30日投稿)

 現在、宍道湖と中海の間を大橋川といっていますが、この場所は江戸時代初めまで一面の水域で、奈良時代に書かれた『出雲国風土記』(以下『風土記』)では入海≪いりうみ≫とされていました。当時この場所は朝酌促戸≪せと≫とよばれ、隠岐国に通じる道路枉北道≪おうほくどう≫が通っており、朝酌渡≪わたり≫という渡船場が設置されていました。

 『風土記』には最後の部分に道路についてのまとまった記述があり、そこには合計4か所の渡がみえます。朝酌渡以外の3か所(斐伊川2か所・神門≪かんど≫川1か所)は「出雲大河≪おおかわ≫」に至る、渡五十歩(川幅のこと)」のような書きぶりで、固有の名前もありません。これに対し朝酌渡は「朝酌渡に至る」と、目標地点として固有名のある「朝酌渡」が明記されているのです。これは出雲国を構成していた郡それぞれにおける郡堺の川についての記述でも同様です。朝酌渡以外の郡堺は「郡堺の〇〇川辺」とされていますが、意宇郡と島根郡の堺にあたる朝酌渡は「郡堺の朝酌渡」と書かれています。これらのことから、朝酌渡は出雲国内でも特に重要な渡で、おそらく何らかの管理施設があったとみられます。

 朝酌渡には、もう一つほかの渡にない特徴があります。島根郡の郡堺の記述を見ると、「島根郡家から意宇郡の堺にある朝酌渡までは十一里二百二十歩(約6.3㎞)で、その内訳には海八十歩(約150m)が含まれている」と書かれています。島根郡と意宇郡の堺は入海の南側(意宇郡側)の岸辺にあり、入海部分は島根郡内でした(図参照)。

 なお、意宇郡の記載にみえる島根郡堺も同様の認識で書かれています。

 入海が島根郡に属しているように書かれているのは、奈良時代、この水域の管理権を島根郡側が握っていたためと推測されます。その論拠は、まず渡の名称が島根郡側の地名である朝酌を冠していることです。また、『風土記』にはここには「賑やかな市の店がある」、「筌≪うけ≫(漁具)が設置されている」と記されていますが、これらは島根郡の記述です。このほか、のちの鎌倉時代、この水域の漁業権については、津田郷(今の東西津田町)と朝酌郷(朝酌町・福富町)で争論になっていますが、幕府は津田郷側の主張を「新儀≪しんぎ≫(伝統ではないこと)」とし、朝酌郷側の権利を認めました。この裁定の背景については当時の政治的事情など想定する必要がありますが、やはり古くは島根郡が朝酌促戸の管理権を掌握していたことが影響していると考えられます。

 奈良時代の出雲国では、出雲国造の本拠地で国府があった意宇郡が最も有力な郡でした。重要であった朝酌渡の管理権を、意宇郡ではなく島根郡が握っていたことの意味については、今後検討するべき課題ということができます。