第16話 生理をめぐる風習
石山祥子 専門研究員
(2022年1月30日投稿)
昨年の春頃から、経済的な理由等によって生理用品が利用できない状態にあることを指す「生理の貧困」という言葉を、公共メディアやSNSで目にするようになりました。こうした話題に戸惑う方もいるかもしれせんが、今回は生理(月経)について取り上げたいと思います。
生理は女性に特有の生理現象であり、太古の昔から、多くの女性がその身体的な不快さや不安定さと付き合ってきました。その対処方法は、今も昔も基本的に変わりません。詰め物や当て物によって経血を吸収します。永観2年(984)に書かれた日本最古の医書である『医心方』《いしんぽう》にも、月経帯や詰め物が紹介されています。材料として長らく用いられたのは、再生和紙やぼろ布、脱脂綿で、布や脱脂綿は何度も洗って再利用しました。使い捨ての生理用品が日本で発売されたのは、昭和36年(1961)のことです。一日中外で働く女性たちに歓迎され、広く普及しました。機能性の高い生理用品の登場は、女性の社会進出を促した反面、生理はプライベートなことであり、他人に気付かれずに対処するものという風潮があるようも思います。
しかし、昭和の初め頃まで、生理は個人的なことではなく、家族や地域の人々にも知られる必要がありました。出産と同様に、生理も出血をともなうため、これを不浄とみなし、忌避《きひ》する時代が長くあったからです。地域や生業などによる違いはありますが、生理が始まった女性は、神社や神棚に近付かない、別室や別棟で過ごす、調理や食事も別にするなど、大小様々な制限をかけられ、他の家族や地域社会の人々から隔離されて数日間を過ごしました。
地域によっては、出産や生理が終わるまで集落共同で管理する小屋で寝起きする風習もありました。こうした小屋は、島根県では「タヤ」、「コイゴヤ」などと呼ばれ、明治の終わり頃まで利用されていた地域もあったようです。出雲地方では生理になることを、「コイになる」とか「タヤに居る」と言いました。小屋の利用は早くに廃れましたが、食事を家族と離れて取る風習は、戦後まで続いたところもありました。生理中の女性は日常とは異なる行動や生活をすることで、家族や地域の人たちに可視化される存在だったのです。こうした風習の根底にある思想自体は支持できませんが、裏を返してみれば、女性が日々の労働や家事から解放され、安静に過ごす期間を家や地域社会が保証していたともいえます。 現代は、このような時代と比較すると、女性にとって天と地ほどの差があるはずですが、周囲が「生理の貧困」に気付きにくい社会になっているのならば、皮肉というほかありません。生理に対処する方法や道具が、限られた中で培われてきた知恵や工夫、地域社会における互助のあり方から学ぶことも多いのではないでしょうか。