いまどき島根の歴史

第169話 南蛮貿易の港町で見つかった切銀

廣江 耕史 特任研究員

(2025年6月4日投稿)

 昨年、安来市広瀬町の富田川河床遺跡で出土していた4点の切銀のうち1点が石見銀山産の銀であることが確認されました。「蛍光X線分析」という方法により、銀の含有量が90%を超え、微量元素のビスマスを僅かに含んでいました。毛利氏により製作されたといわれる古丁銀を切断したものであり石見銀山産と推定されています。

 実は、国内ではもう1点石見銀山産の銀の切銀が見つかっています。それは、長崎県西海市西海町横瀬郷横瀬西という古くから港があった場所です。この場所は、長崎市の北西方向に延びる西彼杵≪にしそのぎ≫半島のほぼ北端で佐世保の対岸です。戦国時代、肥前国大村領で横瀬浦と呼ばれ、1562年に南蛮貿易港として開港され翌年にポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが上陸した場所です。港はこの年に火を放たれ横瀬浦は破壊されています。平戸から長崎に南蛮貿易港が移る過程で一時期港があり繁栄しました。

横瀬浦の位置
横瀬浦切銀出土地。調査地は中央の白い建物の奥側。カーブミラーに「フロイス通」の案内板が掛かっている。

 発掘調査は、2021年に実施され、15世紀の建物跡や近世の埋納遺構が確認され、中近世の陶磁器が出土しています。戦国時代の遺構は見つかっていませんが、耕作土中から切銀が出土しています。長方形で長辺1.5㎝、短辺1.4㎝、厚さ0.6㎝、重量7.71gと小さなものです。重さは当時の単位で2匁(1匁=3.75g)です。古丁銀≪こちょうぎん≫の槌目の線に平行、直行するように鏨を打ち込み切断されており、切銀の通常の切遣いを行っています。時期は戦国時代の16世紀後半と考えられます。

横瀬浦出土の切銀(西海市教育委員会提供)
横瀬浦切銀と丁銀の合成模式図

 石見銀山産の切銀が西海市で見つかったことで、当時の銀がどのように使用されたのか推定できます。16世紀になると中国で貨幣に銀が使われ需要が増し、商業・経済規模が大きなことから大量の銀が日本から流れていくこととなります。当初、銀の流通に関わったのは、中国と日本の密貿易商人でしたが、1550年代に中国人の渡航が禁止されたたためポルトガル商人が中国の木綿(生糸)などを日本に持ち込み、代わりに銀を中国に運ぶようになります。当初は平戸にポルトガル船が入っていましたが、日本人との争いで横瀬浦、福田港、長崎と港が移動していきます。石見銀山で銀の採掘を始めたのが博多商人の神屋寿禎であることから、博多経由で長崎にもたらされたというルートが想定されます。切銀の時期は、横瀬浦が南蛮貿易港として使用されていた頃の可能性があります。古丁銀で鋳造の年代が明らかなもので最も早いものは、永禄3年(1560)に毛利元就が正親町天皇の即位料として朝廷に献納した御取納丁銀になります。毛利博物館所蔵の切銀は元亀元年(1570)の墨書があり切銀として確認できる一番古いものです。横瀬浦の切銀がその時期まで遡るのかはもう少し検討を加えないと断定できませんが、戦国時代の貿易港から出土していることから対外貿易に石見銀山産の切銀が使用された可能性が考えられます。

 一方、文献資料から長崎でのポルトガル人との商品取引で銀による決済がされていたことが分かるものには『大和田重清日記』があります。この日記には、水戸城を拠点とし豊臣政権の六大将と呼ばれた佐竹義宜の家臣大和田重清が文禄二年(1593)に書いたものです。主君の義宜から長崎行きを命じられ、購入品の目録と銀を受け取り、つち(硝煙・火薬)、段子(絹織物)を購入したことが分かります。

 戦国時代には、国内に流通する銀の大部分を石見銀が占めている中で、西海市で出土した切銀は非常に小さな資料ですが、石見銀が南蛮貿易の場でも重要な役割を果たしていたことが分かる事例となります。