第171話 古代隠岐国の2つの文書
橋本 剛 主任研究員
(2025年6月18日投稿)
奈良の東大寺正倉院≪とうだいじしょうそういん≫に伝わった資料群である「正倉院文書」の中には、奈良時代の隠岐国に関する2つの貴重な文書が存在します。今回はこの文書に残されたわずかな記述から、古代隠岐国の政治情勢を大胆に推測してみたいと思います。
その文書とは「郡稲帳≪ぐんとうちょう≫」」と「正税帳≪しょうぜいちょう≫」」と呼ばれるものです。「郡稲」や「正税」は当時の国の財源ですが、それぞれの1年間の収支報告書が「郡稲帳」と「正税帳」です。隠岐国に関しては、幸運なことに730(天平2)年の郡稲帳と、732年の正税帳という、時期の近い文書が伝えられています。
ただし、両文書の残存状況は対照的です。正税帳は一部欠けているところがあるものの、他の記述から類推することで全体が復元できます。一方の郡稲帳は、残された部分はごくわずかにすぎず、全体を復元することは到底かないません。しかし、海部郡≪あまぐん≫(現在の海部町)の郡司≪ぐんじ≫はどちらの文書にも残されており、その内容を比較することができるのです。
さて、郡の役人である郡司には現地出身の豪族が任じられますが、郡司の職階は四段階に分かれています。中でも長官と次官は地元で特に力の強い氏族が任じられることになっており、海部郡でいえば、他の資料からみて海部氏と阿曇≪あずみ≫氏がそれに最もふさわしい氏族です。
以上を確認した上でまず730年の郡稲帳をみると、次官(少領≪しょうりょう≫))に「海部直大伴≪あまのあたいおおとも≫」」、第四等官(主帳≪しゅちょう≫))に「日下部保智萬呂≪くさかべのほちまろ≫」」がみえます。

記載されているのはすべての郡司ではないため、長官(大領≪だいりょう≫))にどのような人物が就いていたかは不明とするほかありません。
では732年の正税帳をみてみましょう。そこには次官のみが記され、「阿曇三雄≪あずみのみつお≫」」の名がみえます。わずか2年後の文書にもかかわらず、次官が交替していることがわかるのです。
ここで注意しなければならないのは、一部の例外を除き、同一氏族が同時期に同一郡の郡司になることはできない、という点です。つまり、730年の次官は海部氏ですから、長官が同じ海部氏であったとは考えにくく、同様に732年の次官は阿曇氏ですから、長官は阿曇氏以外の可能性が高い、ということです。
以上を総合して考えると、730年は長官が阿曇氏で次官が海部氏、732年は長官が海部氏で次官が阿曇氏、という推測を導くことができます。

これが正しければ、この2年の間に長官と次官に就く氏族が逆転してしまったことになるでしょう。海部氏と阿曇氏は、海部郡における政治的主導権をめぐって争うライバルだったはずです。よってこうしたトップの座の交替は、郡内の勢力バランスに少なくない変化を引き起こしたに違いありません。
このように、時期の近接した2つの文書が偶然にも残されたことで、天平期における隠岐国海部郡の政治情勢をうかがうことも可能になったといえるのです。