いまどき島根の歴史

第174話 陸軍所轄期の荒廃した松江城

土橋 由奈 特任研究員

(2025年7月9日投稿)

 今年は松江城天守の国宝指定10周年です。今でこそ松江のランドマークである松江城ですが、明治の世になりしばらくは現在とは違った様子でした。今回は、明治6(1873)年、軍用地利用を前提に全国の近世城郭の存廃を分けた「廃城令≪はいじょうれい≫」により松江城が陸軍省≪りくぐんしょう≫の所轄となった約20年間、同城がどんな様子だったのか見ていきます。

 明治9(1876)年、当時の松江城内は林に鷺や鵜が群がり悪臭が漂っていたようです。島根県は、猟師に頼み退治したい旨を陸軍省に願い出ました。実は廃城令の直後、城郭を含む軍事に関する地所・立木・建物は府県へ預け置かれたのですが、それらを「毀損失亡≪きそんしつぼう≫」した際は陸軍省へ伺い出る必要がありました。そのため、鷺鵜の退治1つにしても、陸軍省へ伺いを出さなければなりませんでした。

 陸軍省は島根県の願い出に対し、兵卒を派遣しようとしましたが、松江城は、当時各地に置かれていた陸軍省の駐屯地から離れているため難しいので、島根県の願い出の通り処置を行うよう指示しました。こういった事情から見るに、当時の松江城は、管理が県に渡ったとはいえ自由には扱えない、また、陸軍省の駐屯地から離れているため陸軍の手も届きにくい、荒廃しやすい状況だったと言えます。その後も様子はあまり変わらなかったようです。

 明治15(1882)年の『山陰新聞』には、またもや城内に鵜が群がる様子が記されています。明治17(1884)年の記事にも、「草生茂り白昼猶暗き有様」だったと記され、逃走した囚人が城内に潜んでいるという噂までありました。

明治25~27年頃の撮影と推定されている、松江城天守の写真。明治27年の修繕工事が始まるまでは写真のような様子だったと想像される。「松江城古写真」(松江歴史館画像提供)

 そんな中、松江城をめぐる状況に転機が訪れます。明治20(1887)年8月、陸軍省から島根県へ「旧松江城并≪ならび≫に天守櫓≪やぐら≫等」の貸し渡しを許可する文書が出されました。これ以降、天守の自由観覧が始まったり、西南戦争戦没者の記念碑が二之丸に建設されるなど、城内を自由に使う機会が増えていきました。

 さらに明治22(1889)年、陸軍省は所轄していた全国の近世城郭のうち不用分を公売すると決定。これらは旧藩主へ優先的に払い下げられることとなり、翌年、松江城は旧藩主の松平家へ払い下げられます。その後、明治27(1894)年の天守修繕工事、昭和25(1950)年からの解体修理などを経て、今の姿に至ります。

 現在の美しい松江城も、荒廃していた時を経て今があるのだと知ったうえで改めて見てみると、その姿により一層重みが感じられます。