第175話 横穴墓の被葬者像―副葬品から読み解く古墳時代
仁木 聡 島根県埋蔵文化財調査センター係長
(2025年7月16日投稿)
日本の横穴墓は、5世紀半ばに九州北・中部で出現しました。その後、6世紀前半から7世紀代にかけて九州南部から東北の沿岸部を中心に大流行します(図)。

( 岩松 保2018「古墳秩序の中の横穴墓、その分布と意味」『待兼山考古学論集』Ⅲ 大阪大学考古学研究室編 )
とくに6世紀後半以降の全国的な横穴墓の広がりは、ヤマト王権が有力農民層などを直接支配したことを示すものであると考えられています。
ののこ谷横穴墓群(出雲市湖陵町 写真1)のように、横穴墓は丘陵斜面に穴を掘る簡易な墓制であることから、そこに葬られた大多数の人々は古墳を築造するような有力者に比べれば、大きな権力や経済力を持っていないと考えられています。

さらに、横穴墓は地域によって形態が異なっており、その地域の有力者の古墳(横穴式石室)の影響を受けた横穴墓、あるいは他の地域の特徴をもつ横穴墓も見られます。
ところで、各地の横穴墓からは装飾大刀や冠、文字が記された土器、あるいは農工具や釣針、鉄滓≪てっさい≫などの生業に関わる副葬品が見つかることがあります。なぜなら、横穴墓に葬られた人々は、地域の有力者に仕えつつも、例えばヤマト王権の軍事動員や耕地開拓で活躍したほか、漁労、窯業、製鉄・鉄器生産などの多様な活動を支えていたからです。
一例ですが、7世紀前半に築造された浜田市三隅町の苅立≪かりたて≫横穴墓では、ヤマト王権の官営工房で製作された装飾大刀のほか、九州北部で生産されたと考えられる鉄の鏃≪やじり≫が多数副葬されていました(写真2)。

苅立横穴墓は三隅川河口の低い丘陵に築造されており、日本海の海運に関わった人々が葬られていたと考えられています。
7世紀はヤマト王権による百済救援や蝦夷征討等の軍事行動が活発化していた時代です。苅立横穴墓に葬られた被葬者たちの中には、ヤマト王権の軍事動員に兵士として加わり、その見返りに装飾大刀を与えられ、九州の動員兵と行動を共にした人物がいたことが想像されます。
横穴墓とその副葬品は、葬られた人々の生前の活躍と当時の社会を読み解く大きな手がかりとなります。