第184話 石見銀山で最古の石造物・「板碑」の発見!
岩橋 孝典 島根県教育庁文化財課世界遺産室課長補佐
(2025年10月1日投稿)
石見銀山は、世界経済に大きな影響を与えた銀鉱山として平成19(2007)年に「世界遺産」に登録されました。銀山では、長い歴史の中で、鉱山の採掘・製錬に関わった人々だけでなく、武士、商人、寺社関係者など多くの人が生活していたことが分かっています。
石見銀山でさまざまな仕事に従事した人々も、神仏に祈りを捧げたことでしょう。寺社には多くの灯籠≪とうろう≫、狛犬≪こまいぬ≫、鳥居が寄進され、お墓にはたくさんの墓石が立てられました。石見銀山一帯に造立された石造物は15,000基以上の数になります。これらの石造物の質・量の豊富さは、日本の鉱山遺跡の中で、石見銀山の際立った特徴の一つです。
さて、石見銀山の石造物調査では、近年大きな発見がありました。それは、石見銀山で最古の年号が刻まれた「板碑」の発見です。山陰地域の読者の方には、聞き慣れない言葉かもしれませんが、板碑は中世(鎌倉時代~戦国時代)の日本を代表する石造物の一つです。ただし、これまで島根県内では小型品を除くと20基あまりの板碑の存在が知られているだけでした。
特に石見地域では、中世に造られた板碑は確認されておらず、板碑造立の習慣が根付かなかった地域と考えられていました。しかし、大田市大森町内の石見銀山坂根口番所跡の近くで発見された板碑には、なんと「弘治三年」(1557年)の年号が刻まれており、これまでに確認されていた銀山最古の石造物の年号(1572年)を15年もさかのぼるものでした。

板碑の碑面には、たくさんの文字が刻まれていましたが、「南無阿弥陀仏」の名号刻字から阿弥陀信仰のもとに造られたことが分かりました。刻まれた文字を読み解くと、篤≪あつ≫く阿弥陀仏を信仰する老夫婦が生前に自分たちの死後の供養をすること(仏教用語で「逆修《ぎゃくしゅ》」といいます)と、銀山で働く人々に阿弥陀仏の加護があるように祈念する内容でした。1527年の石見銀山発見から30年後に造られたものであり、20~30代の時に石見銀山にやって来た人々が老境に差しかかったタイミングで造立されたものといえます。彼らは故郷で見たことのある「板碑」を立てたいと考えたのでしょう。この発見により、16世紀後半の尼子氏と毛利氏による銀山争奪戦中の石見銀山での信仰の一端と、石造物造立が「墓」ではなく、「逆修」という生前供養の行為から始まったことがわかったのです。
また、この板碑の碑面に刻まれた文字は素朴なものであり、板碑の加工技術からみてもプロの石工ではなく素人の製作と考えらます。このことから、1572年以前は石見銀山周辺での石造物の需要が少なく、プロの石工も少なかったことが推測できます。
石見銀山の開発初期の状況は不明な点が多いのですが、この板碑は、往時の状況の一端を今に伝えてくれています。