第186話 謎と迫力の仏像 大寺薬師《おおてらやくし》
濱田 恒志 専門研究員
(2025年10月15日投稿)
古代から文化が栄えた出雲には、古い仏像も数多く伝わっています。なかでも出雲市東林木町の萬福寺《まんぷくじ》に伝わる仏像群は、その代表的な存在として知られます。もともとは、現在地から少し山を登ったところにかつて所在した「大寺」の仏像だといわれ、「大寺薬師」の通称で親しまれています。
薬師如来像《やくしにょらいぞう》を中心にして、平安時代の数々の古像がそれを取り囲む様子は、見る者を圧倒します。とりわけ四天王像《してんのうぞう》の怒りの表情や、雄大な体つき、動きをつけた姿勢は迫力に満ちており、出雲の古代彫刻でも屈指の傑作といって間違いありません。

ところで大寺薬師の周辺は、近年バイパス道路が開通して少し賑やかになったものの、それでもごく一般的な集落といった趣です。参拝した人はきっと誰もが「なぜ、こんなのどかなところに、こんな立派な仏像があるのだろう」と疑問に思うことでしょう。
大寺の仏像が作られた事情について、同時代の記録は存在しません。そのため従来、さまざまな説が唱えられてきました。よく言われるのは、当時の対外関係に注目した説です。大寺の仏像が作られた頃の日本は朝鮮半島と緊張関係にあり、そのため中央政権は仏教の力で外国からの脅威を監視し打破すべく、出雲国など列島の西端にあたる国々に四天王画像の安置を命じました(『日本三代実録』貞観9年〔867〕5月26日条)。大寺の四天王像が作られたのもこうした世相が理由だ、というのです。
出雲に伝わる四天王像の傑作を、当時の正史にみられる出雲の性格と関連付ける説は、一見、魅力的です。しかしこの説には大きな問題があります。それは、この命令において、四天王画像の安置場所を「高く開けていて、国境を見渡せる道場にせよ」と定めていることです。「もしそうした道場が無ければ、新たに良い土地を選んで建てよ」とも命じていて、安置の場所に強いこだわりがあるのです。
一方、大寺の旧所在地は急峻な北山山系を背にし、小高い地点から山ふもとの集落を見下ろす地勢にあります。先に述べたバイパス道路の工事に伴って調査された青木遺跡では、古代の人々の暮らしの痕跡が数多く見つかりました。この地は生活、信仰、そして交通の要地だったのです。ならば大寺の仏像たちが見守っていたのは国境ではなく、現代と同様、ふもとを行き交う地域の人々ではなかったでしょうか。
きっと古代の出雲では、歴史書に書かれていること以上に、豊かな文化が育まれていたのでしょう。記録には出てこないけれど大切に残されてきた数多くの仏像たちが、そのことを雄弁に物語っているのです。