いまどき島根の歴史

第188話 富田城周辺から見つかった陶磁器(三太良遺跡出土品)

守岡 正司 島根県立古代出雲歴史博物館学芸部長

(2025年10月31日投稿)

 8月26日の当コラムにおいて、休館中の島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市大社町杵築東)の様子をお伝えしました。今回は、当館が所蔵している資料を紹介します。

 三太良《さんたら》遺跡出土の陶磁器は、昭和50(1975)年から当館の前身である島根県立博物館が所蔵していました。当時から県内の出土陶磁器の代表品として常設展示され、当館でも総合展示室「尼子氏・益田氏と石見銀山」コーナーや企画展において一部を展示していますので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

 遺跡は、島根県安来市広瀬町富田《ひろせちょうとだ》にある月山富田城北側の新宮谷《しんぐうだに》にあります。大正元年に、県指定史跡新宮党館跡《やかたあと》から約200メートル上流で、低い丘陵が入り組んだ一角を開墾中に、備前《びぜん》焼の壺《つぼ》の中に青花《せいか》皿と白磁皿を納め、美濃《みの》焼天目碗《わん》が蓋《ふた》のように逆さに置かれて発見されたといいます。内訳は、壺1点、天目碗1点、青花皿10点、白磁皿13点の計25点です。これほどの数が一括で、ほぼ割れずに当初の形のまま発見され残っている陶磁器は、県内では他にありません。

 碗や皿が入れられていた壺は口径17・4センチ、高さ24・8センチ。天目碗は、口径12・1センチと両手で包み込めるほどの大きさです。青花や白磁の皿は中国大陸で作られたものです。青花の表面には呉須《ごす》(藍色の顔料)で唐草《からくさ》文や芭蕉《ばしょう》文等の文様を描かれています。いずれも口径が9から12センチ、高さが2~4センチと小さなもので、この大きさの皿は他の遺跡からも出土することが多く、当時の人々が好んで使っていたことが分かります。

 これらは備前(岡山県)や美濃(岐阜県)、中国大陸で作られたもので、島根まで運ばれてきました。その間には数多くの人の活動があり、陶磁器の使用や流通の状況を考える上で大変重要な資料です。

 埋められた理由については、富田城周辺の歴史的環境から尼子氏と毛利氏との合戦や尼子氏再興戦時の戦乱に乗じた略奪から守るために隠した、あるいは地鎮《じちん》等何らかの祭祀《さいし》のために埋めた、など諸説あり、未だはっきりとは決められませんが、いずれにしても埋められてから三百数十年後に発見され、後世の人々の努力により現在まで伝えられてきた貴重なものであることには違いありません。

 遺跡は現在、水田や山林となっていますが、発掘や史料の調査の結果、戦国時代から江戸時代初期にかけての尼子氏やその後の毛利氏、堀尾氏の時代には、新宮谷には館や社寺が存在し、かなりの人々が生活していたことが分かっています。戦国時代の人が使っている様子を想像しながら多くの方に見ていただきたい資料です。

三太良遺跡出土の陶磁器(島根県立古代出雲歴史博物館提供)