第189話 平所遺跡玉作工房の再整理事業
今福 拓哉 主任研究員
(2025年11月5日投稿)
島根県松江市矢田町の平所遺跡と聞いてまず思い浮かぶのは埴輪窯跡から出土した馬や鹿などの動物埴輪や人物埴輪ではないでしょうか。これらの埴輪は古墳時代の埴輪生産の様相を知るうえで学術的価値が高いことから国の重要文化財に指定されています。それ以外にも平所遺跡には弥生時代の玉作工房も存在しており、これも当時の社会を考えるうえで非常に重要な遺構です。今回は平所遺跡玉作工房に関する島根県の取り組みの成果を紹介したいと思います。

弥生時代の玉作は4号住居と呼ばれた竪穴建物跡(写真1)で確認されています。そこからは土器とともに多量の水晶や碧玉、緑色凝灰岩の石材や玉未製品が出土するほか、玉作に用いた鉄製工具も認められ、弥生時代後期後半頃に水晶を主体とした玉作を行っていたことが判明しています(写真2)。ただし、出土した玉類や鉄器などの玉作関連遺物はその膨大な出土量からこれまで十分に検討ができていませんでした。そのため、島根県では平所遺跡玉作工房の実態を明らかにするために膨大な資料の再整理に着手しています。


現時点までの成果として、主に2つのことが挙げられます。1点目として出雲地域の伝統的な玉作技術が平所遺跡でも確認できることです。松江市域では弥生時代前期末以降、「施溝分割《せこうぶんかつ》技法」により管玉を生産しています。これは、軟らかい石材である緑色凝灰岩を石鋸《いしのこ》で施溝分割しながら管玉を製作するもので、平所遺跡でもこの技法による管玉生産の過程で作出される板状の石材が確認できました。このことから、在地の玉作工人が平所遺跡での玉作に関与したことを想定できます。2点目として鉄製工具を利用した新たな玉作技術が東方から流入したことが確認できたことです(写真3)。鉄製工具は弥生時代中期後半に京都府京丹後市に所在する奈具岡《なぐおか》遺跡で玉作に用いられた以降、日本海沿岸地域を中心として玉作に利用されています。硬い石材である水晶や碧玉の加工のために鉄器が利用されたとの考えが一般的であり、山陰へは後期前半に鳥取県域、後期後半に島根県域へ製作技術が流入しています。また、平所遺跡の鉄製工具には玉の穿孔に用いた鉄針など多様な種類の工具が確認できており、先行する玉作工房で使用された鉄製工具の系譜を引き継ぎながらより発展した様相となっています。これらのことから、鉄製工具を使用した玉作技術を有する工人集団が日本海沿岸地域を東から西へ移動し、平所遺跡で碧玉や水晶を用いた玉作を行った可能性もあります。なお、先に示したように在地の玉作技術も認められることから、在地の工人集団と統合したことも考えられます。平所遺跡周辺では玉作工房が営まれた時期と同時期に小規模ながら四隅突出型墳丘墓を多数築造していることが分かっています。このことからこれらの墳丘墓に埋葬された地域有力者層の管理下において玉作が行われていたことも想定できます。
膨大な出土品の再整理事業は継続中であり、今後は出土した玉作関連遺物の多くを占める水晶について検討を進めていくこととしています。今後の成果についてもご期待ください。