第193話 謎の地名 八雲評《やくものこおり》
島根県埋蔵文化財調査センター調整監 平石 充
(2025年12月22日投稿)
昨年の春、奈良県明日香村教育委員会から、同村にある西橘《にしたちばな》遺跡の発掘調査報告書が刊行されました。この報告書は同遺跡出土の270点の木簡について、書かれている文字について検討を加えています。そしてそのうち一点について「八雲評」と判読できる可能性があると報告しています(写真)。

問題の木簡の形状は短冊形で上端に切り込みがあります。この部分に紐を掛け、都に運ぶ税に荷札として付けたと考えられています。荷札木簡には納税した地域が自らの行政区画名を書くのですが、「八雲評」はこれまで知られていなかった行政区画です。「八雲評」の下にも文字が書かれていますがこれは判読できませんでした。なお、「出」の一部が消えて「八」にみえている可能性はないか、現物を確認しましたが、「八雲」のようです。木簡の年代は、一緒に出土した木簡や遺物から飛鳥時代の670年代前後と考えられています。
まず、三文字目の「評(こおり)」ですが、これは現代まで続く行政区画の「郡(こおり・ぐん)」の古い表記です。最初の二文字「八雲」が固有地名ですが、今のところ「八雲」という地名は八世紀の奈良時代にはみられず、郡名に限るとその後も現代まで確認できません(小地名の八雲や八雲神社は、中世以降になるとスサノオ信仰の広まりに伴って全国でみられるようになります)。「八雲評」は飛鳥時代には存在したが、奈良時代以降には名称が継承されないコオリなのです。
「八雲」というと、やはり誰もが思いつくのは出雲の枕詞《まくらことば》、「八雲立つ出雲」です。いままでこの枕詞が書かれた最古の文献は712年に完成した古事記でした。この木簡はそれをさかのぼる最も古い「八雲」の史料になります。同様に「出雲」が書かれた最も古い史料も692年制作とされる鰐淵寺《がくえんじ》出土の観音菩薩立像の銘文です。「八雲」が出雲地域に関連する地名であれば、木簡はこの地域の地名について記した現存最古の史料ということになります。
さて、733年に完成した出雲国風土記では、出雲の由来が「出雲と号《なづ》けられたわけは、八束水臣津野命《やつかみずおみつののみこと》が「八雲立つ」と言ったから。だから八雲立つ出雲なのだ」と説明されています。ここで八束水臣津野命の発言は「八雲立つ」だけで、ここに「出雲」の語はないのです。最終的には出雲のこととして説明されていますが、最初の部分はややつじつまが合っていいません。これは八雲の説明ではないかとの考え方もあります。
この部分の解釈は簡単ではありません。最初に出雲の説明だといっているので、結びでは「八雲立つ出雲」の出雲を省略した、と考えることもできます。ただし、出雲国風土記の地名起源説話では「〇〇の地名がついた理由は〇〇だから」と書くとき、前後の〇〇が違う事例はほとんどありません(よくわからないものはある)。
まだ確定できないことが多いのですが、古くは出雲のことを八雲とも呼んだ可能性なども考えるべきかもしれません。いずれにせよ、この木簡は古代出雲を考えるうえでの、新発見でかつ最古となる可能性のある重要史料なのです。