いまどき島根の歴史

第194話 出雲国府が置かれた場所

吉松 優希 主任研究員

(2025年12月22日投稿)

 出雲国府跡は松江市大草町に所在する奈良時代の官衙《かんが》遺跡です。7世紀後半~末ごろに大型の掘立柱建物が登場し、8世紀第2四半期に定型的な政庁が成立します。それではなぜ出雲国府跡は現在の松江市大草町に設置されたのでしょうか。

 この問題を考えるために奈良時代以前の古墳時代の大草町周辺の様子を考えてみたいと思います。古墳時代中期ごろには出雲国府跡の下層から豪族居館と考えられる大型の方形区画や朝鮮半島系の土器が出土しています。このことから当地で力をもった有力者層の存在もうかがえます。古墳時代後期になると大草町にほど近い松江市山代町・大庭町周辺に首長墳が築かれます。山代二子塚古墳などは出雲東部の最高首長層と位置づけられ、その後連綿と首長墳が築造されます。

 古墳時代後期の出雲地域には東西で異なる政治勢力が存在していました。しかし、古墳時代終末期になると古墳の規模などから出雲東部勢力が優位に立つことを指摘されています。このように大草町周辺の古墳時代中期~後期にかけては付近に最高首長層の存在がみてとれるのです。そのような背景のもと、出雲国府は現在の松江市大草町に置かれたと考えられます。

 ただし、当時の中心的な位置を占めるのは松江市山代町や大庭町などの最高首長層の古墳が築かれた場所のはずです。なぜ、中心地ではなく周辺域である大草町が選ばれたのでしょうか。その背景には安定した平坦面の確保が必要であることが理由にあると考えます。国府は現在の松江市殿町のような官庁街を形成していたことが発掘調査や『出雲国風土記』の研究から分かっています。発掘調査の成果から東西300m、南北650mほどの範囲に出雲国府に関係する遺構が確認されています。しかし、実際は現在確認されている範囲よりもさらに広い範囲に遺構があると考えられます。そのため、国府を設置する場所は広い平坦地が必要です。

 現在の山代町や大庭町の地形を見ると一見、平坦地が広いようにも見えますが、起伏が大きい部分もあり、十分な平坦地があるとはいえません。それに比べて大草町は広い平坦地を確保することができます。また、古代の官道である山陰道が通ることや意宇川を通じて中海や大橋川に出られるなど、交通の要所としても重要な位置といえます。このように遺跡や遺物からわかる情報だけでなく、地理的な環境なども検討することで古代の様子や歴史的背景についてより詳しく知ることができるのです。

出雲国府跡全景(南から) 島根県埋蔵文化財調査センター提供