第18話 明治の地図に古代を求めて
吉松大志 主任研究員
(2022年2月13日投稿)
まもなく開幕予定の古代出雲歴史博物館の企画展「出雲と都を結ぶ道―古代山陰道―」。私はこの展覧会の前提となる研究事業のメンバーとして、さまざまな調査・研究を行ってきました。そのなかで、今から約30年前に郷土史家の小林俊二氏が発表した論文に注目すべき記述を見つけました。浜田市の石見国分寺跡の近くに「アセチ」という地名があり、これは「按察使(あぜち)」であろう、というのです。小林氏はこの点についてこれ以上は追究されなかったようですが、この「アセチ」「按察使」が、謎多き石見の古代史を解明する可能性を秘めていると考えています。
「按察使」というのは、各国の政治を任された国司たちの仕事ぶりを監督するために置かれた古代の官職(国司が兼任)です。石見国の監督は、当初は東隣の出雲国が担当していましたが、後に西隣の長門国(ながとのくに)の按察使に移りました。
もし仮に「アセチ」が「按察使」であるとすると、「按察使」が駐在していた役所がそこにあり、それが後に地名となった可能性が考えられます。「按察使」は国司の行政監督が仕事ですから、石見国司が政治を行う国府も「アセチ」のすぐ近くにあるはずです。つまり「アセチ」が、いまだ場所が不明な石見国の中枢施設を発見する手がかりになるかもしれないのです。
そこで「アセチ」の場所をより詳細に調べるため、先日国分寺跡周辺の古地図を所蔵する浜田市歴史民俗資料館に伺いました。市の職員の方に協力していただき、大きな地図を一枚一枚広げていくと、1876(明治9)年の地図に字「アセチ」を発見することができました。その場所は、石見国分寺跡と石見国分尼寺跡との間の谷地に当たることが分かったのです。
ただこれを「按察使」と断定するには慎重になる必要があります。「アセチ」は、出家した人の住まいなどを指す「庵室(あぜち)」を示す可能性も考えなくてはなりません。周辺には国分寺跡を境内に含む金蔵寺(こんぞうじ)などの寺院も所在しており、「アセチ」にはそうした施設があってもおかしくありません。
「アセチ」の地に古代の役所があったのかを考えるためには、その地名がいつまで遡るかをさらに調査する必要があります。発掘調査も有効ですが、簡単ではありません。ただ、このように古い地図などを丁寧に調べることで、ほかにも1300年以上前の地域の姿を解くヒントが見つかるかもしれません。今後もいにしえの石見の実像を追い求め、調査を続けていきたいと思います。