第198話 土器からみた奈良時代から平安時代への変化
廣江 耕史 特任研究員
(2026年2月4日投稿)
平安時代の島根といってもイメージが湧かないのではと思います。前代の奈良時代は、奈良に都・平城京が置かれ各地と道路で結ばれていました。また、出雲では奈良時代の天平五年(733)に完成した『出雲国風土記』により国庁、郡家など役所の位置や山、川などの地形、動植物が記載されており具体的な様子を知ることができます。奈良時代から平安時代の様子は、発掘調査が行われている出雲国府跡において知ることができます。土器、陶磁器などの食器が多く出土し、役人には食事が提供されていました。使用された土器に「厨《くりや》」(写真1)などの文字が墨で書かれたものがあり、台所のような施設も想定されます。食器として使われた焼き物は、古墳時代と同様に土師器と須恵器です。写真2は、当時の食事を復元したものです。奈良時代になると文書、墨書土器(土器に墨で文字を書いたもの)、木簡(木札に文字が書かれたもの)などの文字資料がみられるようになります。正倉院文書には、「碗・杯・皿」などの器種がみられ、蓋のつく器を「合」、つかないものを「口」と呼んで数をかぞえていたようです。『出雲国風土記』に島根郡の大井浜で「陶器(すえもの)造る」と記述があり、これは当時の出雲最大の須恵器生産地である大井古窯跡群を指していると思われます。また、朝酌促戸では「市人四より集ひて、自然に廛を成せり。」と記載があり、周辺から人々が集まる市が開かれていたとあります。この市で近くの大井古窯跡で焼かれた須恵器も並んでいたものと想定されます。


須恵器は、青灰色の硬い焼き物で古墳時代に朝鮮半島から技術が伝わり、5世紀後半になり出雲の地でも登り窯が築かれ焼かれるようになります。古墳時代後期の横穴墓では、多くの須恵器がみられ埋葬する際に墓の前面にお供えとして壺、坏などが置かれていました。松江市朝酌町の大井古窯跡群は、非常に大規模な窯跡群で9つの支群に分けられています。奈良時代にも国府で使用される須恵器のほとんどがここで焼かれています。『出雲国風土記』の研究で大井古窯跡群のある朝酌郷の記述から朝酌とは出雲国造出雲臣の奉祭する熊野大神に贄を奉った集団が居住した地とされ朝酌郷は出雲臣とも結びつきがあると考えられます。また、須恵器に「社邊」とヘラ書きされた土器がみられ生産者の可能性があります。古代の氏族名の社部《こそべ》臣は、朝酌郷・大井浜のある島根郡の郡司であることから、須恵器生産に関わりがあったと思われます。また、一般的な坏、壺、以外で陶棺と呼ばれる埋葬用に焼かれた棺が朝酌地域の古墳で焼台とともに使われており、須恵器の生産集団の墓の可能性があります。平安時代になると出雲では須恵器の使用が減少していきます。奈良時代に須恵器の生産地は大井古窯跡で一元的に行っていましたが、8世紀後半になると宍道湖、中海の沿岸部を中心に小規模な窯が分散してみられるようになります。出雲市小境町木舟《きふね》窯、松江市宍道町小松窯、安来市廻谷《さこたに》窯、門生黒谷《かどうくろたに》窯、奥出雲町大内谷《おおうちたに》窯です。門生黒谷窯以外は、前時代に周辺に窯が存在しない場所です。9世紀後半には松江市古曽志平廻田窯、松江市東出雲町渋山池《しぶやまいけ》窯で、いずれも操業時期は短期間で木舟窯以外は1基単独の小型の窯です。その後、出雲における須恵器生産は、10世紀の前半に終焉を迎えることになります。(図1)

平安時代になると出雲国府跡でも緑釉陶器と呼ばれる畿内、東海地域で焼かれた緑色の釉薬がかかった陶器、少量ですが中国製の越州窯青磁、白磁などがみられるようになり遠隔地で生産された焼物の量が増えていきます。須恵器から陶磁器へ嗜好が変化したのか、一元的な生産体制が維持できなくなったのか様々な要因が考えられますが、その後の中世になり国産陶器、輸入陶磁器など多種多様な食器を使用するようになり、現代へと繋がっていきます。
*焼台:窯の中で須恵器を焼くときに床面に安定させて置くための台