第201話 松江城内の円形石碑
土橋 由奈 特任研究員
(2026年2月18日投稿)
松江城内には様々な碑が建っています。松江城二之丸の興雲閣《こううんかく》前にある円形の石碑は、1877(明治10)年に起きた西南戦争の戦没者追悼のため、1890(明治23)年に作られたものです。とはいうものの、実は、この石碑が追悼の碑であるというわけではありません。今回は、その辺りの話も含め、この石碑が作られた経緯と当時の松江城の様子を追ってみたいと思います。

明治時代に入ってすぐの松江城は、天守の解体は免れたものの、手付かずのまま荒廃している状態でした。そうした状態を憂慮し、1885(明治18)年から1891(明治24)年まで島根県令(のちの知事)を務めた籠手田安定《こてだやすさだ》は、松江城の整備と公園化を目指しました。1887(明治20)年11月、籠手田は松江市外中原町の清光院《せいこういん》で集会を開き、西南戦争戦没者の紀念碑建設を計画し、それに付随させる形で松江城の公園化を目指すと演説しました。籠手田は、紀念碑を歴史ある松江城に建て公園として整備することは、人々の報国心や松江を形づくった先人への旧恩を振興させるとともに、市街の整備や松江城の保存の機運にも繋がる「一挙両得ノ策」であると考えました。
この集会を機に、新聞では事業の様子が逐一報道されました。そして翌年1888(明治21)年5月5~7日には紀念碑の建碑式が盛大に行われ、多くの人々が松江城へ訪れました。早速、建碑式後の5月31日の『山陰新聞』では、天守の本格的な修繕に着手するとの報道がなされ、9月ごろから松江士族らによる松江城保存の動きが現れ、有志会が結成されるなど、松江城整備の気運の高まりがみられます。結果として紀念碑建立事業は、松江城に人々の関心を向かわせる大きな転機となりました。
そして円形の石碑はというと、1890(明治23)年、紀念碑建立事業の義捐《ぎえん》者を顕彰するため、紀念碑と合わせて二之丸に設置されました。石碑の裏面には特別義捐者の名前が記されており、その功績がたたえられています。
この紀念碑と石碑は1902(明治35)年の興雲閣建設のため本丸天守前へ移動、さらに1927(昭和2)年には、松平直政公銅像建設のため、同じく本丸内の城山公園管理事務所あたりに移動したようです。残念ながら紀念碑は現存せず、青銅製であったため戦時中に供出されたとみられます。こうして石碑だけが残り、紆余《うよ》曲折を経て今の位置に落ち着いています。現在は敷地の一角にぽつんと置かれている石碑ですが、松江城保存の幕開けとともに誕生し、松江城の近現代史をくぐり抜けてきた、とても重みのある存在です。
