いまどき島根の歴史

第203話 出雲国の地震と情報伝達

田中昇一 古代出雲歴史博物館学芸員

(2026年3月12日投稿)

 空気が乾燥するこの季節、注意が必要なのが火災です。近年は、各地で大規模な山林火災が頻発しており、日々の生活においても火の元の取り扱いには一層気を付けたいところです。今回はやや物騒ですが、古代の出雲で起きた火災を取り上げてみます。

 8・9世紀の歴史を内容ごとにまとめた『類聚国史《るいじゅうこくし》』という書物に、承和《じょうわ》2(835)年3月5日、出雲国から官舎《かんしゃ》の火災についての言上《ごんじょう》があったことが記されています。官舎とは役所の建物のことで、ここでは政治の中心施設であった国府《こくふ》を指すものと思われます。国府の火災は地方行政全体にも影響する重大な事案として、中央政府に報告されることになったのでしょう。

 この記事からは出雲国で火災が発生したという事実しか知ることができません。しかし、当時の歴史書である『続日本後紀《しょくにほんこうき》』には、この3日前、3月2日に地震があったことが記されています。揺れを観測した場所や被害の内容については詳しく書かれていませんが、もしかしたら出雲国の火災はこの地震によって引き起こされたものかもしれません。

 古代の日本では、駅制《えきせい》と呼ばれる交通制度によって都と地方が結ばれていました。この道路(駅路《えきろ》)は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という7つの区域に分かれており、およそ30里(約16km)ごとに駅家《うまや》という施設が置かれました。各地で起きる災害の情報は、緊急に連絡すべきこととして駅路を利用して都へ報告されていたのです。

 当時の法律には、急を要する文書の運送速度について「事速《すみやか》ならば、一日十駅以上」という基準が定められています。これは上述の距離から換算すると1日で160kmにもなります。出雲国府から平安京まではおよそ300km強、駅家の数は20余りですので、原則通りにいけば2、3日で情報が届けられるわけです。

 つまり、3月2日に揺れが観測された地震は、出雲国の官舎火災という被害を引き起こし、その情報が駅路を通じて3月5日に到達したと考えられるのではないでしょうか。少し思いきった仮説ですが、災害発生記事の数日後にその被害報告の記事が書かれる事例は他にも確認ができ、あながち間違いではないと思われます。

 ちなみに、この火災をさかのぼること8か月ほど前には、出雲国で飢饉《ききん》が生じていたこともわかっています。火災発生を語る記事は実に簡素ですが、その背景に逼迫《ひっぱく》した出雲国の社会状況を想定しなければならないようです。

承和2(835)年3月庚戌《かのえいぬ》(5日)の出来事として、「出雲国言《もう》す、官舎を災《や》けり」と記される(『類聚国史』巻173〔国立公文書館デジタルアーカイブより〕に加筆)