いまどき島根の歴史

第19話 明治19年のコレラと隔離生活

中安恵一 主任研究員
(2022年2月20日投稿)

 明治19年(1886)、日本ではコレラが大流行しました。コレラは、コレラ菌に汚染された飲食物の摂取により感染し、発症すると急激な下痢や嘔吐(おうと)、脱水症状を引き起こす感染症です。日本では江戸時代後半に初めて確認され、その後、明治時代には何度か流行しましたが、同年の流行はその中でも最大級のものでした。

 致死率は当時60~70%に上り、重症化すると全身が痙攣(けいれん)し、あっという間に死に至るため、人々を大きな不安に陥れました。患者数は全国で15万人、死者は10万人に及んだとされています。島根県でも明治19年が最も流行した年となりました。

「虎列刺退治」(明治19年、東京都公文書館提供)。コレラはコロリとも呼ばれ、「虎列刺」「虎狼狸」といった字が
当てられました。明治時代の流行期には、当て字にちなみ虎をモチーフとした錦絵も多く流布しました。

 県内ではこの年、1000人以上の死者が出たとされます。流行には地域差があったと見られ、石見東部の磯竹村(大田市五十猛町)は、その流行の大きかった地域の一つとされています(『松江市誌』)。同地の住人が当時の経験を書き記した記録から、その生活ぶりを見てみたいと思います。

 記録によれば、磯竹村では9月頃がピークであったようで、これは全国的な流行期と重なります。8月下旬には一日数十人が罹患《りかん》し「全村民に広がる勢い」と述べています。住民の多くは山中に仮小屋を建て避難し、この筆者の家でも山中にあった自身の工場を隔離生活の場としました。 

 当時、国が示した主な予防法は、飲食物に気を配る、家の中を清潔にする、大勢で集まらない、といったものでした。 筆者の家でも食事は強熱で加熱したもののみを食すよう心がけており、さらに子どもに対しては、間食を一切与えない、胃腸保護のため腹巻きをさせる、就寝時に布団から体が出ていないか寝室を定期的に巡回する、といった細心の注意を払っていたようです。

 村内では、仮小屋生活を送っていても衛生環境が十分でない家では罹患者が出ていたようなので、日々、油断ならない暮らしが続きました。9月末、磯竹村の流行は過ぎ、この家族も帰宅がかないました。徹底した対策の甲斐あって、幸いにも家族全員が無事でした。ただ、子育てをしながらの隔離生活について筆者は「約四十日殆ント《ほとんど》昼夜不眠ノ監督ニ疲労ヲ感セリ」と残しています。気の抜けない生活を強いられ、相当に体力を奪われたようです。 

 今のコロナ禍において、筆者の率直な感想に共感を覚える読者も多いのではないでしょうか。気がめいるほどの窮屈な暮らしも2年が過ぎようとしています。一日もはやく終息し、普通の暮らしが戻ることを願うばかりです。