第20話 発掘された戦国時代の建物
東森 晋 専門研究員
(2022年2月27日投稿)
遺跡の発掘調査をすると、住居や倉庫、作業場などさまざまな建物の跡が見つかります。ほとんどの場合、確認できるのは柱を据えた穴や礎石だけです。このため、穴の規模や間隔、中の土の様子から柱の並びを検討して、元の建物の形や規模を推定します。
しかし、柱跡は多い時には一度に1千個以上見つかることもあり、1カ所に集中すると柱の並びを検討するのが大変です。2018年に、私が発掘調査を担当した、浜田市三隅町の戦国時代の山城、普源田砦跡《ふげんだとりであと》では、一つの郭《くるわ》(平坦地)から柱穴が約300個見つかり、柱の並びを探すのに苦労しました。
そこで、柱の並びが明確な石見地方の戦国時代の建物跡を参考にしました。建物跡の平面図を集めて比較してみると、同じような形と規模の建物がいくつも存在することが分かります。図のピンク色の長方形は10×4㍍、緑色の正方形は4×4㍍の大きさを示しています。
長方形の建物は、山城の中心となる大型の掘立柱《ほったてばしら》建物(静間城跡・普源田砦跡)や礎石建物(丸山城跡)、瓦葺《かわらぶき》の門(七尾城跡)などです。庇《ひさし》の有無や細かい寸法は異なりますが、建物部分はほぼ同じ大きさです。正方形の建物は、倉庫や櫓《やぐら》と考えられています。
さらに、城館だけでなく、図のキタバタケ遺跡のほか江津市や益田市の集落遺跡でも確認されている点は特に注目されます。このように、建物の機能がさまざまであるにもかかわらず、石見地方全域でその形や規模が共通するのはなぜでしょうか。
西田友広氏による近年の研究では、鎌倉時代に京都周辺で、石見国の規格材が流通していたことが明らかになっています。1271年(文永8)、山城国南部にある高《たか》神社本殿の造営記録には、購入した材木についても書かれています。そこには、他国のブランド材と共に石見産の材木が見え、七十寸が七百文で購入されています。
1578年(天正6)には、宗像大社造営の際、益田氏は大量の材木を寄進しました。地域によっては森林資源が枯渇する中、石見では中世を通じて豊富だった様子がうかがえます。
私が発掘調査に関わり始めた1990年代には、中世の集落や山城の建物は、手近にある木を使って大ざっぱに建てていると聞いたこともありました。しかし、戦国時代には、効率的な建築やメンテナンスの可能な規格材を使用した建物が、石見国で広く普及していた可能性が考えられます。